父の夏が終わる……映画『鉄塔武蔵野線』を観るEdition.1.0_1998.03.23Edition.1.1_1999.10.07 Edition.1.2_2004.09.16 *ビデオパッケージ以外の写真はゴント撮影 |
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あらすじ(ネタバレ注意です)両親の別居で母方の実家に引き取られることになった少年・見晴(みはる)は、引っ越し前の夏休みの最後の日々を持て余していた。なぜ父と母が別れるのか、はっきりとした理由は分からない。 東京郊外の住宅地、ささやかな一戸建ての家から、近くの雑木林に出かけてみる。今まで気がつかなかった鉄塔を仰ぎ見る。鉄塔にまつわる幼いころの思い出、少年の父は、日曜日のたびに少年といっしょに外へ出かけて鉄塔の下でラジオの競馬中継を聞いていた。父は冗談で「やっぱり鉄塔の下にはパワーがある」などと、馬券の的中にはしゃいでいた。今、仰ぎ見る鉄塔は、送電線を北に伸ばし、次の鉄塔へと繋がっている。その鉄塔へ行くと、番号札が付けられていることに気がつく。最初の鉄塔は70番、今が69番……この鉄塔をたどって行けば、1号鉄塔にたどり着けるのではないか? そこにはいったい何があるんだろう? 不思議な情熱に駆られた少年は、近所の弟分ともいえる少年・暁(あきら)と共に、鉄塔調査に赴く。1回目は徒歩にて出発。途中で失敗に終わるが、決意を固めた少年たちは翌日、自転車に乗って再度出発。送電線の下をまっすぐにたどり、畑と雑木林を横断しながら、鉄塔の下に瓶ビールの栓を埋めていく。真夏の太陽のもと、さまざまな障害を乗り越え、憑かれたように突き進む少年たち。そして、陽が落ちる。暁との別れ。廃棄物処理場の廃車のなかで独り眠る見晴。 見晴は、翌日も鉄塔を追う。靴を川にとられ、大人にどやされ、バスの誘惑にも負けず、鉄塔パトロールを振り切り、自転車を放棄し、1号鉄塔に迫る。しかし、4号鉄塔の前で、再度現れた鉄塔パトロールに捕まってしまう。捜索願いが出ていたのだ。彼の冒険は終わった。 父と別れて、長崎の母方の実家に行く見晴。 翌夏、見晴の父が亡くなる。訃報を聞いて戻る母と見晴。喪主さえまだ決まっていない。叔父の話しでは、亡くなる直前、父が「パワーが云々」と口走っていたという。鉄塔のことについて、知っているのは見晴だけだった。通夜の席で停電、叔父は父のせいではないか、と冗談を言う。翌日、見晴は独り、鉄塔調査の続きを行う。そして遂に、1号鉄塔の変電所にたどり着く。中には入れない。帰りにラーメン屋に入って、かつて父と共に食べたワンタンメンを注文する。そこに、変電所で草刈りの仕事をしているおじさんたちがやってくる。草の成長が他の場所と違うなどと冗談を言う。テレビからは、高校野球中継の音が聞こえてくる。これじゃ仕事にならないと、おじさんたちがビールを注文、見晴はそれをじっと見る。葬式の読経がもれる郊外の家、鉄塔、青い空。刈られた草を積んだ軽トラの荷台の、篭のなかに裸でうずくまって眼を閉じる見晴。セミが飛び立つ。 おおたか清流の音楽が、とても切ない。 |
はじめに少年の冒険映画。少年にとっての夏の光に満ちた映画だ。夏の光は命を解放する。少年は死を感じる、つまり、大人になる。スタンド・バイ・ミーとは別の仕方で。 映画に描かれた郊外の雑木林と畑の連なりは、かつて少年だった大人たちの元に、少年時代を連れてくる。少年時代に野原を駆け回った記憶、ノスタルジーを感じるだけでも、充分に心に届く作品に仕上がっている。だが、この映画は、ノスタルジーだけで終わらない。少年が青年に移り変わる旅と冒険の物語だけでもない。 人によっては、少年はなぜ執拗に鉄塔を追いかけて行くのか、わからない人もいるかもしれない。そうなると、少年二人の会話は子どもの馬鹿話に思えてきて、付き合いきれず、途中で飽きてしまう。 『鉄塔武蔵野線』は、少年が執拗に追いかける鉄塔、意味づけ不可能な鉄塔の前に観客を連れていく。そこに明確な答えはない。スタンド・バイ・ミーのように、大人になって、こうなりました、なんて付随するお話はない。 この日本にとって「鉄塔」とはなんだろう。アニメ映画の『となりのトトロ』(宮崎駿監督作品)では、夕暮れ時の田圃の背景に凛々しく鉄塔が連なっており、ネコバスは送電線の上を走り抜けるほど、環境に溶け込んでいる。鉄塔は人工物から「自然物」へと変化した不思議なモノであり、辻のお地蔵さんと同じ位階を獲得しているのだ。よって、「笠地蔵」のお話があるように、「鉄塔」のお話が生まれてくるのは極めて自然だと思う。 都市、自然、郊外、家族。夏の終わり、大人、子ども、鉄塔、パワー、電気、光。『鉄塔武蔵野線』は、鉄塔の前で止まり続け、人を鉄塔調査の旅に誘う。入り込めない謎の変電所の前に人を連れてきて、思えない何かを思うように、聞こえない何かを聞くように、見えない何かを見るように、促す。 ……などとエラソウな前書きはこのくらいにして…… 鉄塔調査の本当の理由をコジツケテ考えてみよう。 |
水底へ落ちるボール/受け入れ難い現実見晴は水が苦手だ。夏休みの学校プールの時間、プールの底にボールのようなものをたくさん落として、それを拾うゲーム。見晴にはそれができない。体育教師に「おまえはもう6年生だろ、それじゃ長崎の子どもに笑われる」などと言われてしまう。当然ながら、この時点ですでに見晴の転校は学校の先生にも伝わっている。見晴にとっては、水に潜ってボールを拾ったところで、いったい何の意味があるんだ、という気分だろう。どうせ転校してしまうのだし、両親は別れてしまうのだし。そんなことをしても、なにも変わらない現実。足元のボールを拾うことは、現実に沿って生きろというメッセージだ。しかし、その現実、なぜ離婚するのか、は隠されたままなのだ。映画の最初で、郊外の雑木林に出かけた見晴が見知らぬ少年たちに追われて鉄塔の途中まで追い上げられてしまうシーンがある。そのとき、持っていたサッカーボールを思わず落としてしまう。彼はそれを奪い返そうとしない。追ってくる少年たちのその理由が、彼らだけの現実に基づいた理由だからだ。プールの底に沈んだボール、落ちたサッカーボール、それらの現実は、見晴にとっては受け入れ難い現実なのだ。母方の実家=長崎にも水のイメージがあるだろう。そこへなんか行きたくない。鉄塔を降りないで、かつ、水底に落ちた本当の理由を知りたい、自分はどうしたらいいんだろう。 見晴は無意識のうちに、ある行動を起こす。彼自身も気付いていない作戦。両親の離婚の理由を知ると同時にその現実を変える作戦、父を再起動させ母と和解させるための呪術行為……それが 鉄塔調査だ。 |
母の秘密/性差と役割のアンバランス両親の別れの理由を知ることは、大人たちの勝手な秘密、男女の秘密を知ることだ。おそらく、第一回目の鉄塔調査は、母がなぜ別れようと思ったのか、その秘密を知るための運動だったといえる。というのは、暁といっしょに調査に行こうとして暁の家を尋ねるシーンでは、あきらかに、母性よりも女性の視点が盛り込まれており、その後、第一回目の調査がすぐに行われるからだ。この調査はラブホテルの前で中止される。偶然、見晴たちと女連れの体育教師が鉢合わせしてしまう。男女の仲、そこに割り込む子ども。子どもにとって大人とは、父と母と親戚と、先生という役柄でしかない。その役柄をもたない、教師の恋人は、突然現れた子どもに情事を邪魔されてひどくつまらなそうに見える(そりゃそうだ)。彼女は体育教師に対して、教師ではなくて、一人の男性であって欲しかったに違いない。それができないアンバランスな状況は、見晴や暁の家と同じことだといえる。母からみれば、見晴の父親は、父という役割を果たさない男だったのだ。母が別居を決意した理由というのは、こうしたアンバランスによるものだろう。さらに言えば、自分という子どもが存在するから父と母という役割が生まれ、そのために男女が別れなければならないという事実にも無意識のうちに気が付いたはずだ。体育教師は、デニーズで夕飯を食べようと話しかける。体育教師は、口封じのため偽りの父親役を演じようとしている。デニーズで夕食を食べることになったら、体育教師の恋人の立場がなくなって、二人は別れてしまうかもしれない。それに家で夕食をとらなかったときの、家の寒々しい光景が見えてしまう。父と母は向き合うこともせず、家族は本当にバラバラになってしまう。母と共に夕食をとる時間だけ、父もかろうじて存在しているのだ。両親にとっての自分という存在が、二律背反であることに見晴は気が付いた。そうしたアンバランスな状況下でも、自分を引き取るという母親には怒りをぶつけることができないのだった。見晴は、デニーズへの誘いを断る。母親がどうして別れる気持ちになったのかを感じとったのだ。 ちなみに、この夕食を食べるシーンは、かつて父と一緒に鉄塔の下でラジオの競馬中継を聞いた後、ワンタンメンを食べるシーンと重ねてみることもできる。このワンタンメンは父の言い訳であり、かつ、つたない愛情の表現だったのだ。 |
父の秘密/下降地点としての1号鉄塔第一回目の鉄塔調査は不完全なまま終わってしまった。彼にとってのあるべき現実に足を降ろしていない。思わず登ってしまった鉄塔への希望、それは母への希望ではなく、父への希望である。なぜなら、鉄塔は父の力の象徴として、父から教えてもらった力の場であるから。鉄塔は、送電線を連ねて、地平線の向こうに続いている。この鉄塔・武蔵野線をたどって、地上の現実と折り合える着地点、降りられる場所を探すしかないのだった。そこにたどりつけば、現実が変わるはずだと信じて。見晴は、母に嘘を付いてでも調査を続行することを予感している。 見晴にとって、鉄塔は、いくつかのコンプレックスに色どられている。すでに幼稚園時代から、鉄塔を分類、男鉄塔と女鉄塔を描き分けている。ここには大人の男女の問題が投影されている(パパ鉄塔、ママ鉄塔とは言っていない)。また、鉄塔の下には、なんらかのパワーがあるというイメージだ。父のイメージである。父は、仕事の他には競馬と天体観測しかしないような、うだつの上がらない変人だ。ラジオの競馬中継も、天体からの光も、天上からやってくる。見晴にとって父の存在とは、常に天上からの力を受けて生存しているカゲロウのような存在に映っただろう。見晴も心が晴れないときは、天井の蛍光灯をながめたりしている。長崎の実家では学校から帰ると二階に直行、一階でおじいさんが呼んでいるのに降りてこないから、その点では、父親の影響を強く受けているかもしれない。 そんな父の存在、母と別れなくてはならない父の存在への葛藤が、見晴がカブト虫を飼うシーンによく出ている。存在を一箇所に閉じこめて、上から観察する行為は、父とは反対の視線である。けれど本当は、そんな父がいったいどんな人間なのか、知りたいと思っている。土星を見せようと父が声をかけても応答せず、かぶと虫に食べ残りのスイカを与えて透明プラスチックのケースの蓋を強引に閉めるシーン。父は一階の茶の間でスイカを食べた後、すぐに自分の書斎に閉じこもってしまう。見晴にとっては、なぜ、父は、家族三人で、ゆっくりとスイカを食べてくれないのだろうと思ったかもしれない、その気持ちが、カブト虫への代理行為として働いている。土星なんか見るな、土星を見ている父は嫌いだ、そんな父は、ケースに閉じこめてしまいたい。そして、母も僕も、このケースに入って暮らすんだ、そんな願望が隠されているように思える。後半、ゴルフ場へ侵入して管理人に咎められたとき、「クワガタを捕りに来たんです」と嘘の理由を言うが、クワガタ=別れ行く父の存在であれば、真実を語ったことになる。父を捕まえに来たということだ。その真実に足払いをかけるのが、管理人たる大人の現実なのだ。 このままでは現実は変わらないのだ。父と母は別れ、見晴は鉄塔に追い上げられる。なぜこんな目に遭わなければならないのか。母のせいか。違う。母方につくことに異議を唱えない少年は、母の、父への抗議を無意識的に掴んでいるのだろう。あるいは、悪口を聞かされていたのかもしれない。別れなければならない理由、その原因は、父にある、と思うだろう。母のもたらす現実、長崎へ行く前に知りたい、父と母が別れていくという現実、その真実を知りたい。母は父が悪いというが、それは本当だろうか。本当ならば、父を変えなければならない。その力は、1号鉄塔にあるはずだ。ならば鉄塔を渡って行かなくてはならない、真実がわかる場所、父がそれを語ってくれる場所、1号鉄塔を目指して。 鉄塔から降りることができない、というイメージは、調査途中で、二人の女の子と出会い、鉄塔調査隊員に誘うという想像のシーンにも出ている。地面に立って話しをすればいいのに、想像では、鉄塔に登って会話しているのだ。見晴の自己イメージのスタンスは不安定な鉄塔の途中にあって、地上にはない。そして、自分の子どもの姿の分身ともいえる暁以外、誰もその秘密を共有できないことを悟っている。 |
呪物としてのメダル/父のパワーの駆動装置自分が鉄塔から降りることができなくても、なんらかの自分の身代わりを地面に降ろしていこう、それが、ビール瓶の栓を潰した「メダル」である。鉄塔の真下に埋めることで、自分自身の手によって、仮想の自分を地上に繋ぎ止める。鉄塔=父=子どもとしての自分という存在を地上に繋ぎ止める運動は、父と自分との繋がりを確認するためのものだった。映画のなかでは、一箇所、メダルを埋めていない鉄塔がある。見晴と暁がケンカした、有刺鉄線のフェンスがある鉄塔である。ケンカの理由は、父の侮辱だ。有刺鉄線内に入れないということは、父からの拒否、を意味する。拒否された鉄塔に、自分を繋ぐことはできない。このシーンでは、あやしいおじさんが登場するが、まさになにを考えているかわからない父である。二人とも、そのおじさんを見た途端、それを拒否するかのように、その場を立ち去る。鉄塔=父=受容される子どもの関係でしか、メダルは埋めることができないのだ。またメダルは、自分自身の届かない願い、両親に別れて欲しくない、このまま三人で暮らしたいという思いを込めた呪物だ。鉄塔の下に埋めればパワーが増大して叶うかもしれない。そして、このパワーが確実に効くためには、父のはっきりした態度が必要だった、もう一度やりなおそう、という父の宣言が必要だった。それが実際にはできずに、別れの時が近づいている、なんとかしなくてはならない。メダルに込められた思いは、鉄塔を伝って、パワーを動かし、さらには父を動かすための駆動装置でもあった。パワーをもらうためではなくて、鉄塔のパワーを呼び起こし、父の存在を蘇生させるために、メダルを埋めるのである。だが、調査の途中、そのパワーは願いを蘇らせはしないと薄々感づいてしまうのだった。死んだクワガタを入れた缶を架線に投げつけ、生き返らせようと試みるシーンは、父と母が別れるという現実を打ち消してはくれないことを示している。 |
自分の靴/流れ去る父の靴地上に繋ぎ止める素材として、靴もあげられる。彼にとって、靴は両親から与えられた、現実を踏みしめるための道具だ。裸足というのは、家の中、父と母と裸で付き合える空間を意味していた。鉄塔調査二日目、川を渡るとき、片方の靴が脱げて流されてしまう。川の流れは、母の長崎への流れである。片方の靴、父の靴は流されてしまう。それを追いかけることを断念した見晴。ごみ捨て場に捨ててあった靴を拾おうとしたとき、割れて打ち捨てられた墓石を発見する。父の靴の死、父の存在の死、自分が助けようとしなかった、そして自分を助けてくれない無惨な父の存在。見晴は見てはいけないものを見た。見たくなかった、そんな父の姿を。彼は逃げる。 その次のシーンでは、片方の足に拾った靴を履いた見晴がいる。彼は自分の靴を手に入れたのだ。それなのに、ゴルフ場内で、管理人に足払いをかけられて倒れてしまう。あまりにも弱い自分の靴。ゴルフ場から出たあと、思わず、バスに乗り込もうとして拒否するシーンは、自分にはこの二つの靴しかないのだという決意が感じられる。バスは大人たちの大きな靴であり、自分の靴ではないからだ。 靴・乗り物に関して、『鉄塔武蔵野線』と、宮崎駿監督作品『となりのトトロ』の猫バスとは、決定的に違うものを感じる。女の子は猫バスに乗せてもらえるが、男の子は、自分で見つけるしかないのだった。 |
荒野を疾走する孤児/母よさらば、父よさらば追いかけてくるパトロール隊員(田口トモロヲ)が「おじさんが鉄塔になってあげるから戻っておいで」というシーンがある。小川を挟んでの会話だ。パトロール隊員がこう話しかけるとき、見晴は後ろ姿しか見えないアングルだが、正面から見たら、すさまじい形相をしていただろう。父を冒涜する言葉であり、実際の父がしてくれなかった嘘の言葉、大人たちの裏切りの言葉。母には昨夜別れを告げた。次は父に別れを告げる時だ、父は助けに来ない、本当の父は助けに来てくれない(捜索願いを出したのは、昨日の夜に電話に出た母と思われる)。小川を渡る橋を投げ飛ばす行為は「どうだ、渡れないだろう! もう誰も僕を追いかけてくるな! 邪魔しないでくれ!」という慟哭の表現だ。 結局、父は自分を見つけてくれることはなかった。父の信じていた鉄塔の力、それを信じてここまでやってきたが、父は動かなかった、現実は変わらない。見晴は、母も父も川の向こう岸に残して1号鉄塔を目指す。1号鉄塔を目指した最初の理由も捨てて。泣きながら荒野を疾走する孤児になってしまった見晴。 見晴が暁と別れて、廃車のなかで夜を迎えるシーンは、彼が孤児になってしまったことを強く印象づける。父も母もいない、打ち捨てられた真っ暗な空間。そこで独り、つぶれたパンをかじる。水もない。夢のなかで、感電して死んだ暁を見る、ほほえんだ死、それは、彼自身のこれまでの子ども時代の終わり、父のパワーを受けて育った幼年期の死を意味していた。翌日、パトロール隊員を振り切ることで、幼年期の死が決定的になるのだ。彼はもう、家には戻らないつもりになっている。帰る場所などない。 見晴にとっては1号鉄塔の純粋な力だけが頼りだ、そこには自分自身にとって必要なパワーがあり、そこにたどりつくことだけが目的となっている。彼にとって、世界はすでに砂漠である。もし、見晴が1号鉄塔の前に立ちはだかる変電所の有刺鉄線フェンスを見たら、それを血だらけになって乗り越えて、変電設備に触り、死んでしまったのではないだろうか。4号鉄塔に至る直前の行動は、鬼気迫るものがあった。このあたりのシーンは、痛々しくて見ていられない。胸が締め付けられ、見ている者のなかに不安が渦巻いていく。 |
偽りの時の流れ/大人の時間に流されて4号鉄塔で見晴はあっさりと捕まる。そこには母の指令が届いている。履いている靴の片方が母のものであるかぎり、この企てが頓挫するのは必至だった。警察署で母に叱られただろう。鉄塔を巡って行ったということは、父も知ったかもしれないが、警察署に父の姿があったとは思えない気がする。なにごともなかったかの最後の日々がまた始まる。そう、親元から飛び出して二日にも及んだ鉄塔調査は、まるで始めからなかったかのように、現実の流れのなかにかき消えてしまったのだ。図書館に本を返すまで、ザックに入れていたメダルの余りにさえ、見晴は気が付いていなかったのだ。そのメダルは、上履きと引き換えに空になってしまった学校の靴箱に置かれる。当初のメダルの意味はなくなり、今は、自分がそこに確かに居た、という徴になった。あの嫌なプールでさえ、今は思い出に消える、見晴がプールを見ているシーンには、さよならの声が聞こえる。 引越のとき、母はあまりにも素気なく立ち去ろうとする。会話を交わす気がまったくなく、清々したという気分がよく表れている。同時に母は、見晴が父のことを思って、立ち去ることを拒否するのではないかという不安があり、できるだけ早くこの場を立ち去りたいのだ。父は、見晴に声をかける。普通なら、「かあさんと仲良くな」とか「がんばれよ」とか、なんとか、言いそうなものだが、父はそんなことは言わない。「これは持っていかないのか」と、小さな手動の発電機を見せるのだった。この発電機は、映画の最初に出てくる。見晴が熱を出して寝ているとき、父が作って、発電によって光る電球を見せるのだ。母はそのとき、見晴が熱を出して寝ているのに、なぜあなたはそんなものを作って見晴に見せようとするの、と思ったに違いないし、同時に、このときからすでに不和が始まっていたと思われるのだった。父にとって、見晴に対してできることは、それぐらいしかなかったのだろう。父にとっては、見晴への最後の贈り物だった。見晴はそれを持っていこうとはしない。すでに父への思いは、鉄塔調査のときに断念しているからだ。 シーンがどんどん先に進むのであまり気にならないかもしれないが、よく考えるとこの別れのシーンは、不気味に感じる。体育教師から贈られた偽りの時計が、偽りの時を進める。 |
誰も知らない父/止まった時計翌夏、父が突然、亡くなる。母と見晴は急遽長崎から駆けつけ、焼香する。喪主が決まっていないという。このシーンはわずかに入るだけだが、喪主が決まっていない、父と母が完全に離婚したのかどうか、父の兄さえ知らないという事実は異常である。母の振る舞いは、まるで他人事だ。おそらく、この後の会話で、喪主は叔父が行うことになったのだろう。通夜の席順でそれがわかる。父は、見晴や母が手に入れた現実から遠のいた存在になっていたのだ。通夜の受付には誰もいない、集まったのはわずかな親戚だけだ。その親戚さえ、父が死ぬ間際まで何をしていたのか、ほとんど掴んでいない。冷蔵庫を開ければ、缶コーヒーばかり入っていて、叔父は文句を言う。そして叔父は、見晴に、唯一知っていたこと、今夏の出会いを待っていたのに死ぬなんて、と言って泣く。見晴は感情を表さない。このシーンで、見晴はまず水道水をガブガブ飲んでいる。それは、一年前の鉄塔調査のときに、自転車屋で水を飲むシーンと重なってくる。水は、見晴にとって苦手なものではあるが、その水が、現実を連れてやってきて、感情を発露させ、行動を促す。叔父がそう言ったとき、見晴は、プイと横を向いて出ていってしまう。おそらく、夏休みに父の元へ来るなんてことは、まったく予定されていなかったのだ。それは、母が「航空券がなかなかとれなかった」と言うシーンに表れている。航空券の予約がされていない、つまり、来ないつもりだったのだ。 来る予定があり、実際に来ていたら、父が死ぬことはなかっただろう。見晴の複雑な心境を回りの大人たちは誰も気付いていない。父は待っていたのに、自分も母も行くつもりがなかった、そんな激しいギャップにいたたまれなくなったのだ。そこで始めて、見晴は、父との関係が断絶せず、未だに曖昧なままであり、自分の心の時計が、昨年のあの夏の日から止まっていたことに気が付く。 |
父と見晴の発電機/二人をつなぐパワー通夜の席で、父の最後の言葉を叔父から聞く見晴。「パワーとかなんとか言っていた」と。叔父は、それを新興宗教の言葉ととり、それと父の死を結びつけようとする。見晴以外、誰も、パワーという言葉が鉄塔に関係していることを解せないのだ。それは、父と見晴だけの秘密だった。そして停電。叔父が、死んだ父のせいだろうと冗談で言う。通夜や葬式のときは、そんな言葉が出るものだが、見晴にとっては、鮮やかな一撃だったに違いない。父は今、1号鉄塔にいる。そして、パワーを失った。停電のなか、見晴は父の部屋に行き、発電機を回す。小さな電球が光る。映画の最初のシーンと同じ光だ。どんなに小さくてもいいから、自分で電気を起こして光を作り、愛する者を照らすしかないんだよ、それがパワーなんだ、その光が弱々しくて誰も認めてくれなくても、その光だけが本物なんだ、光はそんな事を語っているかのようだった。停電が直り、蛍光灯の光を見つめる見晴。プラグを抜いて、コンセントに耳を近づける。パワーの音は聞こえるか、父は本当に死んだのか、それを確かめるかのように。 |
幼年期の終わり/父の野辺送り見晴は通夜で飲まれたビールの栓を金槌でつぶして、メダルを作る。自転車を借りて、三度、鉄塔調査の続きを行う。今日の葬式に見晴は出席しないことになる。現実にそのような事が起ったと考えると、この行為は前回の鉄塔調査と同じように異常な事と言える。中学生になった見晴にとって、最後の鉄塔調査の行程は難しくない。4号鉄塔は、1号鉄塔へとまっすぐに続く道路の開始地点に立っていて、そこにさえ行けば、1号鉄塔にたどりつけるとわかっているからだ。今回の鉄塔調査は前回と目的が違う。1号鉄塔にパワーを貰いに行くのではない。父の死が本当なのか、を確かめるために。そして、停電のときに見た発電機の光と1号鉄塔のパワーが、同じなのか、違うのか、確かめるために。自分自身がこの現実に降りてきて、自分の力で光を得ることができるかどうか、確かめるために。 昨年と同様、途中で自転車を置いて、徒歩で1号鉄塔をめざす。1号鉄塔が見える場所から、カメラが見晴を正面に捉えるシーン。このシーンは、たいへんに美しいシーンだ(父の元に走り寄ってくる子どものように見晴を撮っているように思える、連想したのは、NHKの外国テレビドラマシリーズ『大草原の小さな家』のエンディングで、女の子が丘から降りてくるシーン)。 見晴は1号鉄塔にたどり着く。そこは巨大な変電所であり、有刺鉄線のあるフェンスで取り囲まれている。このときの見晴の表情は単なる喜びではない微笑がある。これまで隠されていたことがわかったときの安堵感。ようやく自分は、地上に降りてくることができた、入れない1号鉄塔=変電所の前で。 1号鉄塔は複雑な場所だった。男性鉄塔も女性鉄塔も混ざり合った場所。それは、大人の隠している「死」と「生」が入り交じった黄泉の世界である。死には誰も近づくことができない、できるのは、自分が死ぬことだけだ。変電所の入り口にたたずむ、見晴。メダルを埋めることができない。ある断念を含んだ、確認。父の存在、父の命は、蘇りはしない。そして、父の元にあった、幼い子どもとしての自分も、もう、戻って来ない。父の言うパワーの源泉は、この1号鉄塔のある場所にではなく、あの発電器にこそあったのだ。 最後の鉄塔調査は、父との永遠の別れを確認するための、野辺送りの儀式となった。 |
父の夏が終わる/篭のなかの見晴、二つの解釈 父はいない。自分はここにいる。父を残して立ち去った自分、自分を残して立ち去った父。過ぎ去った時間。帰り道、道路脇のラーメン屋に入る。ダイドーのコーヒー自販機が画面右脇にかすかに映る。ワンタンメンを注文する見晴。父が食べさせてくれたワンタンメンを今、自分で注文し、自分で食べるために。変電所内で草刈りの仕事をするおじさんたちが二人、入ってくる。変電所内の草は、他の場所の草と違って伸び方が早いと冗談を言っている、そうだったとしたら、おじさん二人も背が伸びてしまうではないか、と。おじさんたちの言葉を聞いて、見晴は、父が自分の成長を、彼なりの仕方で思っていてくれたことを知ったはずだ。 |
消えた少年たち/終わりに途中で帰宅することになった暁は、ほんとうに家に帰り着いたのだろうか。この暁こそが、現代の子どもの象徴だろう。見えない送電線を辿って夜の郊外をまだ彷徨っているはずだ。あるいは、見晴も暁も、出会うことがなく、鉄塔調査の旅もできずに、自宅に囚われの身になっているかもしれない。4号鉄塔の手前までのシーンで映画が終わっていたらどうだろう。その後の見晴、暁の消息がわからない、というのが、今、大人と子どもの間にある現実ではないか、と思う。あるいは、4号鉄塔に親のような存在が現れ、1号鉄塔を目指す子どもと命をかけて戦うようなシーンを連想してしまう。『鉄塔武蔵野線』の1号鉄塔にたどり着くと、別の現実の世界で覚醒する、なんて話しならば、『マトリックス』と同じになる。『マトリックス・レボリューション』で、主人公は、ラストのシーンで、送電線を辿って人間発電所の中枢へと向かうのだ。 彼らはそれぞれ、この世界の周縁という郊外で、何かにすがろうと自分自身にパワーを与えてくれる1号鉄塔をめざしているかもしれない。その場所は、渋谷かもしれないし、池袋ウエストゲートパークかもしれないし、ネットの世界かもしれない。それぞれの「鉄塔武蔵野線」は長く、そして果てしない旅になろうとしている。願わくば、「鉄塔武蔵野線」を照らす夜明けが訪れ、朝の食卓に、父・母・子が揃って席に着けることを祈る。 追記 まだ謎が残っている、父がワンタンメンを注文したときの器が、ネギミソラーメンの器だったこと。器が違うぞ、なぜだ〜!!! 追記2 そして最大の謎、「珍来東所沢店」は存在するのか。私の他にも、同じ疑問を持つ人がネットに一人いた(たった二人かよ)。私が2004年9月に、実際に鉄塔調査に赴いた時には、珍来東所沢店は見つけることができなかったが、似たような店(2004年バージョン、右写真)は発見できた。 追記3 この映画評では、両親と子どもの関係軸で、1号鉄塔に迫る理由をコジツケテみたのだけど、それ以外にも1号鉄塔を目指す、理由のない理由、というものがあるような気がする。 鉄塔調査隊・見晴少年の、鬼気迫る突進には、なにやら、登山の匂いがする。「の-1鉄塔」のようなニセ頂上にだまされながらも、真の頂上、1号鉄塔をめざす。汗、荒い息づかい、行くか、戻るかの判断、夕闇迫る緊張感。独りの夜。 彼は「なぜ、鉄塔調査をするんですか?」と聞かれたら、言葉に詰まって、こう言うだろう「そこに、1号鉄塔があるからです」と。(終わり) |
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