日曜のテレビ番組(サキヨミ@フジテレビ)で、蜂が行方をくらましている、という話をやっていました。
『ハチはなぜ大量死したのか』(文藝春秋)から番組を作ったんですね。
えーと、読んでません。
読みたいです。
すいません。
読んでないけど投稿。
蜂が大量死したら、受粉しない、植物の実が結ばない。農業がダメになる。食糧危機。やばい。
そんな番組。
あの番組のコーナーのラストで、アインシュタインが
「蜜蜂が絶滅したら人間は4年で絶滅する」
という予言をしていた、なんて紹介されていましたね。
これはマユツバと思われます。
……テレビの番組は素朴な興味と関心で作られている、わけがない、その話はまたいつか。
それにしても、困っているのは誰でしょうね。
養蜂家? 農業やっている人? 八百屋さん? スーパー? 消費者?
穀物のトレーダー? 総合商社? 国のエライ人たち? 人間?
ちがう、ちがう。
蜂でしょ。蜂。
蜂だって好きで失踪してるわけじゃないでしょう。なんらかの自然の大いなる連環を断ち切って、失踪しているわけです。
いや、それこそ連環を維持するための平衡作用(ホメオスタシス)、人間のやってることを蜂が補おうとしている、そう考えること自体、もしかしたら不遜なのかもしれませんよ。
ようするに蜂はもう、人間が嫌いになった、と。
蜂にも尊厳死ってものがあるんです(もちろん推量です)。
蜂の大量死というのは、養蜂家にとっての道具の大量死、なわけで、人間のために死んでくれ、と言われてもねぇ、もう嫌だよねぇ、と。対等なお取引をするならともかく、使役される、奴隷になるぐらいなら死んだほうがマシだ、と。
誇り高いんですよ、蜂は、きっと。
蜂って偉大な生物ですよ。
人間含め、多くの生物を養っているんですから。
そういや、聖書には「蜜の流れるカナン」なんて表現で、蜂蜜が出てくるわけで、「約束された地」、豊かさ、平和や希望の象徴になっています。蜂って奴は、たいした生物です(権威付け)。
そんな蜂が、人間を見放した、ってのは、100年に1度の金融危機、なんてもんじゃなくて、人類史上初めての驚愕の憂うべき事態かもしれませんよ(恐怖を煽る)。
蜂のエライところは、植物と動物の生存の媒介を司っていることですね。
蜂がいないと、植物も動物も(動物は植物を食べてるわけで)死んでしまいます。
人間は知能を持ち、蜂よりもさらに強力な媒介機能をもっているわけですが、その力を、人間のためだけに使ってるような気がします。
「人間さえ生き延びられるならばそれでいい」と。
それって、蜂よりも器量が狭いですよねぇ。
人間だけが人間ばっかりです。
人間が生存するためには、富士山のような形をした広い生物界の裾野が必要、だから自然を大切に?
でも、これは人間視点なんですね。
別に自然界は人間のために存在しているわけじゃないから。
自然界を改造して、人間だけが生き延びられるシステムにリバースエンジニアリング?
それ、困るな・・・と蜂が動き出した。
そんなわけで、蜂が人間に対して、お仕置きをしているのかもしれません。
人間だけでなく、あらゆる生物のことを考えて行動してくれよ、と。
まるで神ですね。
「蜂=神」説、誕生。
そのほうがまだいいですよね。
お金持ちの国の人のエライ人だけが集まって何か決めるサミットで、「こうしなさい」とか決められても、うさんくさいというか。それは人類全体の声を代表しているわけじゃないんですから。
蜂に言われたほうが、まだ、やる気になりますよね。
ハチミツくれるんですよ。ハニーですよ。
今、蜂は失踪死しているだけですが、そのうち、新しい生物体に突然進化して、人間を刺し始めるかもしれません。
蜂の大量死とは、最初の一刺しにすぎないんです。
豚や鳥のインフルエンザに加えて、今度は、蜂ですよ。
次々と人類を襲ってきますね。
なんという恐怖でしょう。
二度目に刺されると、アナフィラキシー・ショックが襲って人類が……(?)
(こんなふうに恐怖をメディアが煽る理由も、その背景も、きっと何かあるとは思いますが、その話はまた後日。『そのまま放って置くと、大変なことになりますよ』)
蜂=神が死ぬとなると、「天は我々を見放した」んですかね。
映画『八甲田山』の北大路欣也のセリフですよ。
『ハチはなぜ大量死したのか』よりも先に『八甲田山死の彷徨』(新田次郎)を再読したほうがいいかもしれません。
追記:天が見放したのなら、人間がなんとかするしかありません。
人間が偉大であるかどうかはともかく、人間が起こしたことは人間がなんとかしなくてはいけない。
これは「カエサルのものはカエサルに返せ」ということです。
自然の連環の内側での問題は自然に放置すべきだし、そこから断ち切られた人間が起こした問題は、人間が解決しなければならないし、そして、人間はそれを解決できるはずだ、という希望をもって生きるしかないわけです。
エマニュエル・レヴィナスがそういうことを言っていたと思いますが……どの本だったか、忘れてしまいました。
[追記1 2009年7月23日]
この記事をエントリーした後、北海道の山で遭難がありました。トムラウシ岳の遭難事故です。
「死の行軍」と報道されていました。
ガイドもツアー登山客も、みんな、危機に対してバラバラでした。準備も装備も心構えも知識も、そして、力を合わせて知恵を出し合って困難を乗り越えるというパーティの意識も薄かったと思います。
いずれにせよ、自分は、対象となる山の困難度が増せば増すほど、ツアーで行くものではない、と思っているし、困難であればあるほど、人を誘うことをしなくなります。
一人ではとても無理だからといって、それでは、お金を払って連れていってもらうというのはありだろうか、と思うと、山に関しては「なし」だよなぁ、と。
登れないものは登れないんですよ。
登れないならば、登れるまで、チャレンジし続けるしかない。
そしてダメなら諦める。そして、登れる山に登る。
同じ対象・目標に向けて情熱を傾ける、パーティを組んだほうが安全でありより目標を達成しやすいし、それぞれが役割を補うことができる、そういう関係性のなかでパーティを組む、一緒に登る、ということは、一人で登るよりもすばらしいことだと思います。もちろん、そこにお金の主従の関係は介在しないし、してはいけない。そこにあるのは、それぞれの力と、力の質に最適な役割分担だけ、です。
今の日本の政治・経済・生活もまた、嵐に突入していて、体感温度マイナスの風雨の山頂に取り残されてバラバラにされている人も多数いるわけです。そして、薄手のセーターさえ持っていない人たちも増えています。今のままで行けばどうなるか、だいたい、見当がつきますし、意図的にそうしているフシも感じたりするわけですが、さて、命をかけた場所での人間の紐帯を結ぶのは何か、互いの信頼はどのように築かれるのか、では翻って自分はどうなのかと、考えるわけです。
[追記2 2009年7月23日]
「蜂」に関しては、「蜂起」という言葉があるんですね。某新聞に作家が書いてまして、なるほどと思いました。蜂は死んだんじゃない、「蜂起」したんでしょう。