ここんところ、「事故学」みたいなものを考えている。
前に「ヒヤリハットの法則」= 「ハインリッヒの法則」に関して少し調べたことがあり、記事にしてから、ときどきぼんやりと思い出すことがある。
最近、毎日起こっている事故というのは、社会的無意識の表現のバリエーションなのではないか、と思えてきた。
フロイトが、言葉の言い間違いによって無意識の存在を仮定したのと同様に、社会全体に影響を与える事故というものも、「社会的な言い間違い」、社会的無意識の複合感情が事故という表現として出てきたんじゃないか、と。
#似たことを考えてる人はすでにいて、きっと研究しているんだろう、後で調べてみたい。
「積読」状態だった『アクシデント 事故と文明』(ポール・ヴィリリオ著/小林正巳訳/青土社)がほとんどの疑問というかモヤモヤした感触を少し鮮明にしてくれた。というか、この爺さんの語り口は象徴的な事柄をイメージの包囲網で指し示すやり方なので、アクシデントそのものが明快になったわけではなく、その様相がわかった分、さらに不気味になってしまった。
なんでこんなことを考えたか、というと、秩父別駅混雑事件まとめ@MellowMoonを読んで、そのエントリーでリンクされていた、マナー違反で乗客乗れず─東京の埼京線でも発生@ボーガスニュースを読んだから。
高校生が電車に乗りきれず駅に置き去りにされてしまった、というニュースに対して、「そんなに満員に乗せるのはいかがなものか」と皮肉を込めた架空ニュースが応酬。
ボーガスニュースのエントリ記事で気になったのは、乗車率1200%だって骨にしてしまえば可能だと、人間の悪の関係を揶揄的に表現していた部分。
「働けば自由になれる」! 思い出した、アウシュビッツの正門のアーチにはめ込まれている言葉「ARBEIT MACHT FREI」だ。ナチスに命令されてポーランド人の囚人が作ったというプレート。
電車、満員、労働、一斉の移動。
そこに表れてくる、何か、得体のしれない嫌な「密度」「圧力」「間隔」。
それらのイメージについて、まとまりはないけど、書き残しておく。
2007年5月に起こった「JR北海道留萌線秩父別駅高校生積み残し事件」では、電車に乗れなくて取り残されてしまった若者たちがいた。それが、若者たちのマナーの悪さとして報道された。
乗り物の乗り方、マナーの問題、教育の問題、自己責任、では済まない問題がそこに見えている。
2007年6月に起こった「JR東北線架線切断電車立往生4時間すし詰め事件」では、乗り込んだ人たちが、車内に閉じこめられ、体調を崩した人々が、病院に運ばれた。
乗り遅れて置き去りにされた若者と、電車に乗ったはいいけど立ち往生してしまう大人たち。
大宮駅で電車を待つ学生たちが、駅の階段に、なんとなく座り込んでいる映像。
その間隔。パーソナルスペース。
架線の切断は、架線の切り替えポイントに電車が偶然止まってしまって、パンタグラフとの間に異常な電位差が生じて、架線が「溶断」したのだという。ベテラン運転士が、赤信号に気を取られて、停止位置を間違えたのだという。
偶然の停止位置、パンタグラフとの間隔、電位差、溶断。
この「うっかりミス」で、「溶断」していたのは架線だけなのか。そこにある「電位差」は何か。
尼崎JR脱線事故と「日勤教育」。個人の意識と無意識、心理状態。操る手と労働。機械と公共性の連動。
2007年6月に渋谷で起こった温泉施設の爆発は、ガス分離のチェックを誰も行っていなかったから起こった。
そうした事故と似たような事故は起こっていないか。これから起ころうとしていないか。
あるいは、個々の人間の意識・無意識のなかで起こっていないか、と。
そして最も注意しなければいけないのは、起こっているはずなのに、起こっていない、とされている事故が多数あるんじゃないか、と。
たとえば、年金の問題のように。
すでに速度超過、ブレーキ間に合わない、溶断している事柄もあるだろうし、これから来るものもあるだろう。
そして、このような「間違い」というのは、単なる間違いではなく、極限の表現として、シグナルとして、表れることもあるのではないか、と。
たとえば、「逆さのB」のように。
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の門に書かれた「ARBEIT MACHT FREI」の「-B-」が上下逆に見える。これを、門を作らされた囚人の抵抗の証とする見解もある。
働けば自由になる@Wiki
後は、ぼんやりと思っていることのメモ。
たとえば、会社が人手不足で、社員もバイトも疲労困憊している状況で、それでも会社を維持するために働き続けて、過労で病気になってしまうのと、会社の利益は出ないけど無理には働かないで途中で会社が倒産して路頭に迷うのと、どちらが健康か。つまり、破綻すべきものは早く破綻させて再生させるほうがいいのではないか。
放置することで問題として表出させる。
問題・事故をシグナルとしてとらえるということ。
そうしたなかで、たとえば、戦争や紛争やテロも捉える、考えることができないか。
では、戦争や紛争やテロは表現なのか? それは究極の、表現の殺戮なのか。
個人が起こす個人的理由による犯罪はどの程度まで社会的なものか。社会にとって悪であるということは、どういうことなのか。そこに罪と罰はどのように関係してくるのか。社会と個人と事故。
事故・失敗・逸脱・異例から生まれてくる創造にはどういうものがあるか。
このほか関係してイメージしたこと。
地殻内部を進む地震波、固体と液体を進む速度が違うように、情報、噂、知の伝播は人間社会のなかで、あるいは個人のなかで、どのように伝わるのか。