「「発掘ってなあに」シリーズ」を読んでいたら、
千葉の畑で縄文土器の破片の表面採集をしていた子どもの頃を思い出しました。
↓ 場所は村田川の最上流地域の、今はチバリーヒルズと呼ばれているあたりです。
まさかあの畑が住宅地になってしまうとは思いませんでした。その頃はすでに大人になって、離れてましたし、「田舎だったのになー、通勤するにしても遠いよ、どうなってるんだろう」驚きました。結果は、バブルだったわけですが。
表面採集は収穫の終わった冬から早春にかけてです。よく見ようと、畑地に膝をついて探すものだから、泥だらけでした。農家の方に注意されたこともありましたが、作物を植えてない時期なら、土器や小石などをとってくれるのは農機具の刃によいと言われたこともありました。畑のなかを歩くにしても、子どもだから許されたんでしょうね。
今の子どもならゲームのキャラをすべて覚えていくように、草創期から晩期まで、縄文土器の編年や文様を覚えていったと思います(残念ながら名称を忘れてしまったものもあります)。
やってることは、川で魚やザリガニとったり、カブトムシやクワガタをとったりするのと、変わりません。
土器を洗って干した後は、あーでもないこーでもないと、判定会をやってました。当時は郷土史ブームだったこともあり、カラー図譜、図鑑なども出てきたので、図書館で借りてきて何度も何度も読みました(いっしょに、大陸書房のUFOシリーズもよく読んでました、矢追純一木曜スペシャルとUFOブームでもありました)。
竹を割って半分に切った断面で文様を付けていく絵柄はきれいでしたし、表面に薄く、黄色い粘土を塗って焼いたものもありました(ゴシゴシとたわしでこするととれてしまう)。繊維を入れて焼いたもの(もろかった)、晩期には薄くて固くて黒い、精巧に作られたものもありました。
だんだん小難しいことを書いた本も読めるようになってきてたので、学生社の考古学シリーズも借りてきて読むようになり、藤森栄一、よりも、旧石器の狩人かっこいい、と思うようになりました。すべての関東ロームの赤土の崖には注意を怠らずじっくり見つめる少年です(笑)。
東京湾と九十九里と、どっちにも行けるけれど、当時編まれた郷土史誌の遺跡地図には載っていない場所で木葉形尖頭器も見つけたりと、チャリンコであっちへ行ったりこっちへ行ったりしてました。
村田川は子どもにとっては深い渓谷に思え、北側から自転車で下っていくと、まるで崖のようで、たいへんな速度が出たものです。そこは、荒々しい別世界なのでした(南総里見八犬伝の世界)。村田川の谷津田の奥の棲んだわき水が流れる小川にはシジミがたくさんありましたし、畑の間の雑木林にはうさぎもいましたし、縄文人はうまいもの食べ放題でしたね。
拾ったのは土器の破片だけでなく、鏃もありました。黒曜石のキラキラ光る破片は畑で目立ちます。石鏃を専門に製造していたんではないか、というぐらいに多かったのを覚えています。墨のように黒いものではなく、透明なガラス部分と黒い部分が混ざったような欠片が多かったと思います。千葉の下総台地の畑には石ころは存在しないので(黒い腐植土か関東ローム層、その下は砂)、畑に石が転がっていればそれは人工的に運ばれたものです。
当時、石鏃用の黒曜石の産地は信州和田峠や北八ヶ岳の冷山(麦草峠)周辺、あとは箱根のお山からだと思っていたので「信州から来た石か、交易の範囲はとても広いんだなー」などと思ってましたが、今は伊豆七島の神津島も混じっているそうです。となると、舟で石を運んできたのか? ということになり、当時の舟(丸木舟?)、航海技術、海洋文化圏含めて、とても気になるところです。
舟で、石とともに、やってきた人たちがいるのでは? と。
ミクロネシア、フィリピンといった黒潮経由で来たのか、また、九州では縄文時代に破局噴火がありましたから、そこから逃れてきた人もいるのではないか、などと、妄想が膨らみます。
ちなみに、千葉では丸木舟がたくさん出土しています。出ているのは、九十九里浜です。
丸木舟@wiki
日本での先史時代の丸木舟の発見例はおおよそ200例ほどで、その分布は関東地方に最も多く150例近くあり、そのうち千葉県での発見例は100例を数え日本全体の半分を占める。各地域での発見例では、千葉県北東部の縄文時代のラグーン(潟湖)が湖沼群として残る栗山川中流域での出土がことに多く(後略)
検索して調べていったら、縄文時代の九十九里浜は、今のように直線の浜ではなくて、複雑に入り組んだラグーンや潮だまりの湖干、干潟、台地の崖の近くには渓谷まである不思議な場所だったと、今になってわかりました。子どもの時は、思い至りませんでした。
外洋はどうなんでしょうか。黒曜石を神津島から運んだことは間違いないわけですから、何か方法があったのだと思いますが、簡単とは思えません。……これについて興味深い考察をされている方がいました。
さて、考古熱に浮かされて遺跡を歩き回っていて、不思議だったのは、九十九里浜を見下ろすもっとも高い位置ともいえる高台にあった辰ヶ台貝塚です。関山式が出た縄文前期の遺跡だったと思います。
ここはすでに調査が終わって埋められてしまい、当時でさえ公園の芝生の下で、表面採集ができず、残念に思った遺跡でしたが、なぜこんな高台をベースにしたのか、それが不思議でした。
縄文海進があったとしても九十九里の浜からわざわざ60mも登らなければならない、毎日登り降りしていたらとても疲れるじゃないか! と(別に心配してあげなくてもいいんですが……笑)。
この場所は、北側が広い畑の台地に続いており、南側は村田川が流れて沢状に削られています。といっても「谷津田」と言われる田んぼです。この川は西に向かって緩やかに下っていて、東京湾まで流れており、途中にはたくさんの縄文遺跡があります。東側は急な崖となって落ち込んでいて、平坦な九十九里平野となって九十九里浜の海岸線に至ります。高台からは九十九里の水平線が見えますが、縄文海進があれば、海はもっとずっと近い位置に見えたでしょう。
西の村田川を下って東京湾のほうで魚や貝を採ることもできるし、東の九十九里浜に下っていけば、海が入り込んできていて舟も使える、「おいしい」場所だったんだな、と気づきました。
ちなみに、このあたりは、東京湾と九十九里浜との中間、分水嶺で、河川争奪が起こっている場所で、九十九里側に下るのと、村田川へと下る、ちょうど峠のような場所にあります。
太平洋と東京湾を結ぶ最短距離の街道の峠の位置にあたります。
河川争奪@wiki
この貝塚からいちばん近い谷津田を掘り返したら、もしかしたら丸木舟が出てくるかもしれません。出漁に向けて待機場所があったかもしれません。河川争奪でどちらにも川が流れていますので、舟がどっちの側に置かれているか、先頭がどちらを向いているか、気になります(泥地から何か縄文の遺物を見つけたことは一切ありません。河川争奪の小さな川には通行できない小さな滝がありますし、勝手な妄想が爆発しているだけです(^^;)。
であったなら、もっと川に近い場所に住めばいいはずで、やはりあの高台に貝塚を作る(貝を捨てる)のは不可思議です。縄文人は何か理由があって九十九里に降りられる位置、浜を見下ろす高台をわざわざ選んだのではないか、と、またしても同じ疑問が生まれてきました。
別の考えもあります。彼らは九十九里の浜伝いに、南から登ってきた、だから九十九里浜は重要なのだ、と。黒曜石を求めて、外洋に出た人たちの末裔。神津島から帰ってくる時に、黒潮に流されて漂流して房総側に流されてきた人たち(上記の「古き良き丸木舟」に書かれていますが、実験航海をしてすぐに流されているそうです)。房総半島の突端を越えて、九十九里の沖合に流れますので、もしかしたら九十九里に流れ着いた人もいるかもしれない(それでも失敗すればはるか太平洋のはるか沖合まで流されてしまいます)。
漂流の怖さについては
漂流ものがたり@南船北馬舎
に詳しいです。記録を残せずに流れ去っていった冒険者がどれだけ多いか……と思います。
でも九十九里伝いに来て九十九里浜で漁労採集をすのなら、もっと海沿いの浜の近くで暮らせばいいはずです。最近になり、この高台の下に、縄文後期の大規模な集落の遺跡(山武郡大網白里町養安寺遺跡)が発見されています。何か強い意図があって高台を場所を選んだとしか思えません。
高台を選んだ理由の一つは「祭祀場」だったのではないか、ということ。夜、火を焚けば、海原から光が見えるはずです。灯台、ということです。その時代にそのようなことが行われていたかは不明です……江ノ島にも縄文時代に火を使った祭祀所があったとネットにありました。光に関しては、千葉には妙見信仰があるので、火にまつわる祭祀と何か関係があるのかもしれません。
(この地域に、火祭りや、火に関係する民話・説話はないようです)
灯台、とまでいかなくても、舟に関係する意味があるのではないか、と思っています。
舟で海原に出て重要なのは、丘のランドマーク、山になります。帰る方向の目印です。
縄文の貝塚のある高台は、周辺ではもっとも高く、100m近い標高があります。
高台はとても重要な場所になるはずです。
貝塚の遺跡から数百メートルしか離れていない古い城跡に土気城址跡がありますが、その前にあったとされる城の名は「貴船城」です。
こんな高台に「貴船」というのは、おかしな話しです。
貴船城跡
この地に「金城(きんじょう)」または「貴船(きふね)城」(土気古城)という城砦を築いたとの伝承があり、平安時代初期における蝦夷鎮定の後方拠点となったと考えられる。
「貴船」というと、京都の貴船神社が有名です(京都府京都市左京区鞍馬貴船町)。反正天皇の時代、玉依姫が黄色い船に乗って浪速から淀川、鴨川と逆上り、上陸したところに水神を奉り、祠を建てたとされます。本殿の左側には舟形石があります。玉依姫は火照命(海神)の娘。平安時代には雨乞いの社として信仰され、祈雨には黒馬、祈晴には白馬または赤馬が献ぜられるのが例とのこと。水徳神タカオカミノカミを祀る旧官幣中社で、社名は古くは木船、貴布祢とも書いたが、明治4年(1871)以降「貴船」と改められた・・・。
興味深いのは、船を隠すのに使った小石を持っていると航海安全だという信仰があること。
船形石
船と小石の関係が密接です。もしかして、この石とは、黒曜石のことでは? と思ったのですが、関係なさそうです。何か関連を見つけようと思えば、恣意的に結びつけることはなんでも可能です。連想ゲームの遊びということでお許しを。
wikiで見ると、夜に参拝する風習があるそうです。灯りに関係する何かがありそうです。縄文の上に接木しやすいモノ・コトはたくさんありますし、ここらへんは、もっと掘ってみると何か出てきそうです。
さて、九十九里の、他の「貴船」について調べてみます。九十九里の南、上総一ノ宮の玉前神社(たまさきじんじゃ)の祭神は玉依姫です。ここも「貴船」の系列にあると思います。
玉前神社から海岸までは約8kmあり、神輿担いで綱をつけて多くの人が曳きながら約1時間駆けて駆け抜けます。海岸で祭儀が行われて解散となります。
玉前神社・十二社祭
海岸まで8kmも移動する、という神事は、もともと船を出す神事だったのではないか、と思わせます。海岸線が後退し、8kmもの距離になるまで長い時間を経過しても残っている祭だとしたら、その初源は、縄文時代にまで遡れるかもしれません。
九十九里の北、横芝町(横芝光町)の祇園祭では、神輿が最後に栗山川に入ります(京都の祇園祭同様の神輿洗い)。栗山川は、縄文の丸木舟が多数出土した地域にあり、サケの回帰する川の南限にあたり、また、黒潮がこの地点から沖合に出ていく地点でもあります。祭りは土用の祓いの時期に行われますが、このあたりで「土用」というと、「土用波」を思い出します。波が高くなって、舟にとってはやっかいな時期になります。
祇園祭@横芝光町
この祭りも、古層の時代には、舟を川=海に出す行為だったのではないだろうかと思います(確定的な証拠は今のところ何もありません)。
ちなみに、高台の貴船城の北東の崖下、東金市山田にもタカワカミノカミを祭る「貴船神社」があります。
雨乞いや航海安全の霊験顕かな神として農漁民の信仰を集めている
「航海安全」とあるのですが、この場所から九十九里の海岸までは20kmもあり、また、大きな川はありません。なぜこんなところにあるのか、謎ですね。
「貴船」が「木の舟」(木=黄=金)と考えると、九十九里を臨む高台にある貴船城の古層は、縄文まで遡れるかもしれません。
(なお、貴船、鞍馬、ユダヤ人・・・といったお話しは華麗にスルーしておきます)
九十九里に流れ着き、この高台に住み着く、高台から降りて舟を海に出し、魚を獲り貝を採って、再び高台に戻り、貝塚を作った、夜は火を焚いた。帰りが遅くなってもその光が見えれば帰ることができた。石器となる石(玉)を持った人々もやってきて、住み着く者もいた……重要な場所は聖地となり、祭祀所となった。九十九里の海岸線の高台には、こうした舟と海に関係する祭祀とその場所がたくさんあったが、弥生時代になるに連れて海岸線がどんどん遠くなり、人々も移動して、消滅してしまう。いくつか残った場所に、後世の「貴船神社」の信仰が接木され、横芝の祇園祭や上総一ノ宮の祭の原型となった、と。
妄想と推察(憶測)の三段跳びでここまできましたので、最後の跳躍を。
やはり高台に登ったことの意味がわかりません。灯台といっても、毎日照らす必要はないでしょう。
もっと切実な、強力な理由があったはずです……それは、地震です。
地震による津波の被害にあって、海岸線は危険だと感じて、高台に居住したのではないか、ということです。……そんな証拠はどこにもないのですが、地震学者さんなら海蝕崖の少し下あたりをボーリングすれば、太古の津波の痕跡の層を見つけることもできるでしょう。その津波と、縄文前期の時代が重なれば……「当たり」かもしれません。
さてさて、妄想が止まりませんので、またいつか、考えてみたいと思います。