Twitter は市場経済のSNS(ソーシャルネットワークサービス)のひとつで、それは大金持ちに買われた。
参加者が好き勝手に投稿(=「さえずる」)することによって現実の社会・経済が動いて、価値を生み出した。
いずれ利益を生む、だからこのSNSは買い取られた。
オーナーが変わり、サービス名が変わり、サービスのアイコンが変わった。
戦争に負けた国が国名を変えられ、国旗を変えられ、通貨も変えられるという、なるほど、これが屈辱の感覚か、という思いも反芻するが、いやいや、Twitter には自治とその社会はなかった。
Twitter に社会はあったかもしれないが自治という政治はなかった。
参加者がよりよい統治のために、それを為してくれる統治者たちを選ぶ、そのような選挙、平等で公平な機会もない。
選ばれた統治者組織、政府がない、その政府によって決められた、この社会を運営するために必要な税金を収めることもない。
参加している者たちがよりよく変えていくような余地がそもそも存在しない。
その社会に参加し構築し維持していくには、義務や責任があるはずだが、そのようなものもない。
与えられたサービスのうちの、かりそめの楽しみでしかなかった。
ネットワーク上で必要なサービスに与りたい者たちが組織を営み、そのために必要な義務や責任を果たす、血を流してでも守りたい、己の命を賭して守りたい、そのような社会は、電話回線のネットワークを介したソーシャルネットワークサービス(SNS)にはいまだ存在していない。
そのような組織、機関が必要な世の中は幸せと思えないけれど、地上で生きることを拒まれた者たちが増えればふえるほど、そのような組織、機関、社会は望まれ、招来される。