個人ボランティア活動家集団「ブルーシート」が第一次の災害復興支援活動を終えて東京に戻った。
まだボランティアが入らない初期の段階から岩手・三陸に入って長期間、活動した団体で、自分はGWにそこに飛び込んでお手伝いした。
長期間、ほんとうにお疲れ様でした。
活動されたことは、自分が記憶しています。決して忘れることはありません。
そして現地で貴重な経験をさせていただいたことに、感謝します。
この活動について、すぐにブログに記録し公開していなかったのは、自分の活動にどのような意味があるのかを正確に推しはかることができない状態で、単に活動記録だけを掲載するのはよくないと思ったのと、何かえらそうに活動報告記録を書くのはイヤだな、と思ったからだ。
また、危険を伴うボランティア(以後、V)に、安易に人を誘うのはよくない、自分で調べて、自分で考え、覚悟を決めて自分の意思で向かうべきだ、と思ったから。
ただ、6月も末で本格的な夏になり、Vの数も減っている状況もあり、また、記録を残しておかないとこの災害や支援活動自体を忘れてしまいかねない、と思い、記録の最初としてこの記事を書くことにした。
自分が関わったのは、GWの5日間。
4月末、福島・いわきの勿来海岸のボランティア(以後、V)を一日してみて「この場所でこの状態なら、宮城や岩手はとんでもないことになってるぞ…」と思い、機会があればもっと北にVに行こうと思っていた。
しかし、4月の時点では、岩手などはVを受け入れる態勢がようやく整いつつあり、個人で行くのは迷惑になる、特にTVで報道されている場所や、行きやすい場所は、Vや野次馬が集中して交通渋滞が起こるから気をつけたい、という報道がされていた。
自分で物資を調達して、それを持って行くことも考えたが、復旧・復興の邪魔になるのはまずいと思った。
いずれにしても、まだ人手が足りないところに行くべきだと考えていた。
こういう災害時のV活動はどうあるべきなのか、それを知るべく、ネットで本なども探して、できるだけ集めた。
そのなかに『地震・災害ボランティア活動入門』(絶版、入手は古本のみ)があった。阪神淡路大震災から新潟中越の地震まで、個人で支援を続けてきた方が小さな出版社から出した本で、その個人の活動の思いが伝わってきて、どの本よりも感銘を受けた。
そして思った。「もしかして、この著者は、今回もまた支援Vとして現地に行っているのではないか?」と。
検索してみると、活動していた!
すでに3月末の段階で彼らはハイエースで飛び乗って現地に向かい、支援活動を開始していた!
そして、Vも募集していた。
これは行くしかねぇ、と思った。
GWにさっそく連絡をとった。来てくれ、という。
よし。V、行くぞ。
まずはボランティア保険に登録。休日なので地元の市では受け付けていなかった。わざわざ埼玉・北浦和の出張所まで出掛けて登録する。
弟に車を出してもらい、妻といっしょに3人で、岩手の岩泉にあるVの拠点に向かった。夕方出発して、着いたのは翌日の昼になった。
岩泉の社協でV登録して、沿岸に近い現地V本部に向かった。
一睡もせず、V2人を運んでくれた弟さん、ありがとう。
妻は当日の午後、津波で荒れ果てた海岸の掃除をして、翌日、帰郷した。
彼女は報道される恐ろしい映像や情報に苦しんでいた、そして、何か自分もできることがあるはずだ、と。
恐ろしい災害の情報だけを蓄積し、それに対して何もアクションを起こせないことは、心と体のバランスを崩すと思う。
当初、連れていくつもりのなかった妻を連れていったのは、現実をしっかり見て、それを解決するために全身を動かすことが、とても重要だと思ったからだった。
自分はそれから5日間、V代表のもとで、作業を手伝った。寝袋で寝た。
帰りは、秋田から来たV2人組の車に乗せてもらい、盛岡まで送ってもらった。
日中の作業の後での運転、ほんとうにありがとうございます。
盛岡からは深夜高速バスで帰郷。
5日間、作業の多くは、津波で壊されてしまった国立公園内の谷間の浜辺の掃除が中心になった。
場所は「松月浜」という。
もとは小さな湾の小さな漁港であったはずの場所が、跡形もなく流されてしまっていた。
湾の奥の谷間は、破壊された人工物、もはやゴミになってしまった資財が散乱している状況だった。
V団体ブルーシートの代表が、この惨状を見て、見るに見かねて「片付けよう」と自主的に片付けを始めた場所だった。
誰から依頼を受けるでもなく、だ。
もともとは新潟中越の地震のVとして活動したときに知り合いになった方が、岩手三陸海岸の田野畑の方だったそうで、今回の大震災で急遽、かけつけた、ということだった。
まだ雪が降るような時期、三陸の沿岸の北部はまだ支援の手が届いていない、孤立した場所がたくさんあった。
彼らはその場所で被災した方、特に支援の手を受けられない場所で困っていた方を支援していた。
その支援の間に、津波で破壊された小さな谷間を見て、心を痛めた。そして、自主的に活動を開始していた。
頭の下がる思いがする。
ブルーシートの代表は60歳を超えてはいるが、見たところ50代に入ったばかりという印象で、ともかく精力的によく動く方だ。
現場の支援活動の経験値はおそらく、国内でも一番だろう。
ロッカーの娘さんやその若い知り合いたちが集まって、代わる代わる、東京を往復しつつ、支援活動を続けていた。
そのタイミングで、自分はVに関わったことになる。
自分以外にも、志をもって集まったVがたくさん集まってきていた。
岩手の花巻からは、若者グループが支援に立ち上がっていた。
秋田からは二人組がやってきていた。
岩泉で旅館業をされている方が夕方には支援物資を届けてくれた。
みんな、音楽が大好きで、夜はギターを弾いて歌ったりして、まるで何か合宿をやっているような感じだった。
津波が襲った谷間は、壊れた人工物で散らかっていた。Vの団体名が「ブルーシート」というのだけど、破れたブルーシートがあっちこっちに散らばり、大津波で高い木の枝に引っかかっていた。
狭い谷間に散らかっているものが木材ならまだいいが、折れ曲がった鉄骨、グシャグシャに折れ曲がった重いトタン板、そして港で船舶の停泊用に使われていたと思われる巨大なタイヤなど、ありとあらゆるものが谷間に散乱し、どこから手をつけていいやら、途方に暮れるような状態だった。
居住区を中心に片付けが進んでいる段階では、こうした狭小の谷間はまったく忘れられた場所になっていた。
その場所で、時間のゆるす限り、片付けを行った。
金属、ゴムといった破片を一箇所に集める。
いくらやっても終わらない。
汗だくだった。
夕方、Vのバンに乗せてもらい、ベースに戻り、Vの詰め所になっているテント内で代表の作る夕飯をごちそうになる。
燃料はもちろんプロパン、水は大きなポリタンから。
行ったことはないけれど、想像するに、ヒマラヤ登山のベースキャンプみたいな雰囲気だろう。
もともと何もないところで活動を開始したのだから、こうなるのだろう。
寄付で活動していることもあり、経費を抑えるため、近くでとったたんぽぽのてんぷらも食べる。これがうまい。
夜は公民館の床に寝袋で寝させてもらったけれど、代表はハイエースのなかで寝ていた。その時点ですでに一ヶ月以上は経っていたはずだ。
公民館は村から借りていて、被災者の方のための物資置き場になっていたし、できるだけ現地の方に負担をかけないようにするのがVの正しい姿だと、頑なに守っていた。
風呂はないけど、ドラム缶でお湯をわかして、そのお湯を頭からかぶることができた。
それ以外は、水道の冷たい水で頭を洗った。
自分が来たGWの時期は急に春めいて、気温が高くなった時期だったらしい。それでも水はまだ冷たかった。
3月末あたりはどれだけ冷たかったのだろう、と思う。
さらには被災者はどれだけの厳しさに置かれたのか、と……
自分の支援活動は微々たるものでしかないかもしれないけど、自身の意思で活動に関わることができたこと、現地の状況がどうであったかを自分の目で確かめ心に刻むことができたのは、たいへん重要な経験だったと思うし、これからの生き方、これからの社会、この日本を考えるうえで極めて意味のある経験だったと思う。
もちろん支援は終わっていないどころか、これは長期戦として、支援をし続けていく必要があると思う。
ブルーシートの活動はこれからもまだ続き、7月末には田野畑で行われてきた音楽祭「SONG OF HEAVEN」を、地震・津波災害の復興支援イベントとして開くという。
また、現地での活動については、花巻の若者活動団体「Latent Energy」が引き継いで行っていくそうで、そのメンバーとはV活動でともに作業している。都内で行われた岩手復興BBQにも突然、参加させてもらったりした。
まっすぐな心をもった若者たちが、自分たちのもてる力で、復興に向けて自ら動いている。
彼らから学ぶことは多い。
自分も支援活動を続けたいと思う。
その一貫として、ブルーシートの代表が著した、絶版になっている本を復刻できないか、と思っている。
自分はあの本を読まなければVで飛び込んでいくことはなかったはずなので。
あの本を復刻できれば、自律的に活動するVが増えるはずで、復興に役に立つ。
商業出版で可能かはともかく、打診をしてみようと思っている。
細かい話しはまたいずれ書こうと思うけれど、V代表が帰郷するということで、自分もここで一区切りつけて記録を残すことにした。
突然飛び込んでいって、あまり役には立たなかったと思うけれど、受け入れてくれた被災地のすべての方、そしてブルーシートの皆さん、Vのみなさん、そして、弟と妻、両親、そして本のことで相談に乗っていただいた出版社社長のS氏にも感謝したい。
これから考えて実行することがたくさんあるけれど、ともかく、次の行動を起こそうと思う。