2011年4月21日、前夜発日帰りで、遅ればせながら災害ボランティアに行ってきた。
車やバイクががいいかもしれませんが、電車でアプローチ。
忘れないうちに、メモをまとめてアップ。
活動できてよかったと思う。
勿来のスタッフのみなさん、地元のみなさん、一緒に活動された方、後方支援してくれたパートナーに感謝。
わずか一日ではあったけど、社会と個人のあり方、これまで考えてこなかった、多くのことを考えさせられた。
そこには社会を考える貴重な価値がある。
また災害ボランティアには行きたいと思う。
被災者支援する方法には義援金、物資を送るなど、さまざまな方法があるけれど、もし直接行けるなら行くのがベストだと思った。ボランティアの手が余っているということはないと感じた。まだ何も手がつかず、唖然・呆然として立ち尽くしている場所もたくさんある。一ヶ月が経って、一般のボランティアを受け入れる体制がようやく整いつつある、まだそのような段階にある。行った先で、被災された方の要望をうかがい、何ができるか自分で探して、自律的行うのがいちばん効果的だろうけど、まずはボランティアを行っている団体の活動に加えてもらえばいいと思った。ネットで検索すれば、多数のボランティア団体が活動している。現地で直接受け付けているところもあるし、ボランティア用のバスで現地まで送迎している自治体や組織もある。まず、それを探してみようということで、ネットで検索するなどした。
その検索で見えてきたことは、ボランティア活動しながら、付近で宿泊したり、飲食して、その情報を持ち帰って広める、地元の経済を活性化する観光経済ボランティアでもいい、ということだった。特殊な技能を現地で役立てたり、ビジネスの経験をを活かして被災地と支援地の間で橋渡しすることができるとさらにいい。何かできるはず、と考えるのだ、と。自分が行けなくても、これから行くという人を間接的に支援してもいい。物見遊山で交通路を塞いで邪魔になってしまう野次馬では困るけれど、実際に手助けする野次馬ならいいと思う。結果として復旧・復興に役立てばなんでもいいのだった。
ボランティアに要請される作業内容は、日々刻々と変わっていることもわかった。最新の情報をチェックしておく。数日するとまったく違う問題が発生していたり、以前の問題が解決済みだったりする。また、現地滞在に必要な道具は基本的に何もないと考えて、持って行くものを準備する。登山、キャンプと同じような感覚で揃えた。ボランティアは自己責任が原則で、現地で事故やケガを起こしてしまうと、迷惑をかけてしまう。ボランティア活動中にケガをする可能性はあると感じたので、体の調子が悪いときは行かないほうがよさそうだった。また、余震が続くなどして、不測の事態が発生する可能性も考慮に入れて、慎重に行動しようと思った。今回はできなかったけど、各市町村でボランティア保険に入れるので、問い合わせて加入してから現地に行くべきだと感じた。
行動概略
場所:福島県いわき市勿来のボランティアセンター周辺
日程:4月21日(木)、電車による前夜発日帰り
ルート:夜に埼玉の自宅を出る。常磐線勝田駅改札外にてシュラフで雑魚寝。始発下りに乗って勿来駅。歩いてVCまで30分。受付9時。作業開始。昼休憩。16時解散。駅の近くで食事。18時過ぎの上り電車で帰る。帰宅は23時過ぎ。
*車なら常磐道勿来インターを降りるとすぐ。VCには駐車場もある(それほど広くはない)。
*バスという手もある。勿来インターでバスを降りて、そこからタクシーという手もある(健脚なら歩けない距離でもない)。
ボランティアセンターの名称、募集内容など
いわき市勿来地区災害ボランティアセンター(以降、VC)
同VC参加希望者Q&A
このページに行き着いたのは、Twitterで「ボランティア」で検索をしていて、ハッシュタグ #iwaki のリツイートを見つけたことから。行動数日前に発見して、仕事を早めに終わらせるなどして、行けるタイミングをはかっていた。雨では作業が中止になる可能性もあったので、朝から晴または曇りが条件でもあった。
*ボランティアの要請や内容は当日の朝に確定するようです。頻繁にチェックして、もっとも直近の情報に従うのがよいと思います。
行動詳細
□2011年4月20日夜
数日前から行動計画、装備調達。パッキングを済ませて出発。途中のコンビニで食糧調達。電車でJR日暮里駅から常磐線に乗る。少し不安な気持ち。冬山レベルの緊張感。4月に起こった3.11の誘発関連地震の余震も続いているし、北には原発もある。不測の事態は想定しておかなければいけない。駅前のホテルに泊まることも考えたが、さして眠る時間もないし、勝田駅の改札外、駅ビル内でシュラフでごろ寝。酔っ払いがいてあまり眠れず。起きて適当に飯。
2011年4月21日
5時過ぎの常磐線下り始発に乗る。天気曇り。普通の日常、朝の通勤通学の光景。下りの列車に乗る人はほとんどいない。日立駅を過ぎるあたりから、屋根の瓦が割れてブルーシートで覆っている家が増えてくる。3.11の強震動に加えて、4月11日17時に起こったいわき市の直下型地震(M7.1、震度6)の影響も加わっているのかもしれない。このとき、埼玉でも大きく揺れて、原発に致命的な事故が起こりはしないかと不安になった。外部電源が一度落ちて復旧したので、その時点では安堵したけれど、考えてみれば震度6に襲われた地域は、3.11の地震と津波、そして原発事故の風評被害もあって、多重の被災をしていたことになる。3.11で断水して復旧作業を突貫で続けてようやく9割以上の復旧を果たしていたのに、再び断水、これが復旧されつつある状況のときに向かっていたことになる。
常磐線は海に近づき、次第に海岸線を走るようになる。津波の被害も見え始めた。勿来(なこそ)駅着6時過ぎ。まだ時間は充分にある。もう1本遅らせれば、駅ビバークしなくても来られるが、余震が続いていて電車が遅延すると、VCの集合時間に間に合わなくなると思って、1本前にした。土地勘もないし、海岸線にも行ってみるつもりだった。駅前は桜が満開で散り始める頃。都心との季節の差は2週間ぐらいか。夏の海水浴などで有名なところらしい。このあたりに来たことは一度もない。
駅を降りて、近くのコンビニに行く。置いてある商品、食糧は少なめだ。コンビニ内のテーブルでカップラーメンとおにぎりを食べる。普通に朝の車通勤の人が多い。町は一見、普段通りに正常に動いているようにも見える。なんだか緊張して不安な面持ちで来たのが場違いな感じがしてきたけど、何か、やはり違うようにも思える。コンビニに置いてある地図を見たり、これから行くVCまでのルートを確認するなどしてしばらく待機したのちに歩きだす。海方面に向かって歩き、一度、海岸線に出てみる。この堤防も超えて海が来た、ということなのか。
戻って、海岸線と平行する北東方向への道へ。家の屋根が壊れていたり、道路がひび割れてボコボコしている箇所がある。川を渡った先では、液状化で路肩が崩れているのか、片側車線が傾いた道路がある。津波の被害もあったようだけど、すでに一ヶ月過ぎていたからこの周辺では片付けが終わっていたようだ(この関田海岸沿いは津波の被害が限定的だったようだけど、隣接する他の地域は甚大だったようだ)。
VCまで迷うことなく到着。1時間前には着いてしまった。広い空き地にプレハブ小屋が数軒並んでいて、駐車スペースも広い。スタッフがこれから屋外テントを張る準備とミーティングを始めていた。これを手伝ってもよかったのだけど、邪魔しても悪いと思い、荷物を近くに置いて、海岸まで行って見ることにする。途中でマンホールが液状化現象で飛び出していた。道路沿いのフェンスが歪んで、田んぼにはゴミが散乱している。付近まで津波が押し寄せたことがわかる。海岸は静かで不気味だった。これから津波が来るわけでもないのに、妙に緊張する。浜辺には壊れた船が打ち上げられていた。しばらく海を眺めてVCに戻って着替えて準備していると、受付が開始された。
受付で名前住所等連絡先を書く。腕には名前をカタカナで書いたガムテープを貼り付ける。長靴やヘルメットなど持っていなければ装備も貸してくれるようだが、あまり数はないので、自分で揃えていったほうがいい。受付が終わればミーティング用のプレハブのパイプ椅子で待機。ボランティアの受け入れを行う、システマティックな流れができている。どのような団体がVCの仕組みを作って運営しているのか、わからないけれど、あるいは手探りでやっているのかもしれないが、非常によくできていて感心する。感覚としては、市民マラソンの受付のような感じ。
次第にボラの人が増えてくる。女性もけっこう多い。駅から歩いてきたのは自分だけかもしれない。全部で30名ぐらいか。VCスタッフ長が前に出て、ミーティングを開始。ここで現在、行われている作業は、地元の方からの片付け等の要請を受けて、ボランティアをまとめて手配して送迎する、瓦礫等の運搬用のトラックを往復させる、というものだ。飯場の人夫に作業を割り振るみたいなもの。力仕事ばかりではなく、いろんな作業がある。担当スタッフの一人がそれぞれに作業内容を説明、参加したい人は手を挙げて、と言う。すぐに5〜6人ぐらいの班ができる。どの作業に参加するかは自身の判断と希望による。どんどん手を挙げていかないと、作業がなくなってしまう可能性もある。班ができたら、班長を決定し、作業の監督を任される。スタッフは現地に同行して作業指示はしない。スタッフが作業内容や注意事項を伝える。一般の方からの依頼要請を受けた作業なので、定型書類に依頼者のサインをもらうなど、行うことがマニュアル化され、これが徹底している。また、現地までの車の運転、瓦礫搬出用のトラックの運転も基本的にボランティアが行うが、これは現地の土地勘がないと難しい。作業場所ではトイレが使えないのでトイレに先に行く。ペットボトルの水と飴が用意されていたが、これはいつも用意されているとは限らないだろう。貴重品などはポーチに入れて持って行く。大きなザックはその場に置いていく。盗難の可能性もあるが、汚いシュラフを持っていっても仕方ないだろう。
ゴミ袋などを持って、ワゴンに乗って出発する。VCから出て行く車にスタッフが声援を送る。戦地に出陣するような気分だ。千葉から来た大学生、親子で参加している方、近隣の方など、メンバーはいろいろ。イギリス人の青年もいる。午前中の作業場所は高台の隣合う住宅二軒。おばあさんの家だった。強震で落ちた瓦やブロック、割れた硝子などを袋に入れてトラックに積む。縁側から伸びる庇も落ちそうになっているので、つっかえ棒をして補強するなどした。それぞれできる範囲で、作業の目的に合わせて、自主的に行う。周囲の多くの住宅も屋根にブルーシートを貼っていて、何らかの被害を受けているようだ。2時間ぐらいで作業終了。VCに電話して回収する車を回してもらう。途中で鮫川という川を渡るが、3.11のときは、この川を津波が駆け上がっていったと地元出身の方が言っていた。YOUTUBEにも動画が上がっていると聞いて、これを書いている今、探して見てみたけど、すさまじい勢いで川沿いを津波が遡上し、水かさが増している。
VCに戻ってワゴンから降りてすぐ行う作業は、長靴の消毒、手の消毒、そしてうがい。感染症などを防ぐことが徹底されている。それから昼休憩になる。おにぎりを食べるなどする。他の人は自分の車などで待機。自分は再び海岸線のほうへと歩いて行く。地割れや液状化、津波による被害をよく観察してみようと思った(後述)。このような現象を見るのは初めてで、ほんとに地震がここを襲ったのだということがわかってくる。田んぼのあぜ道の舗装道路を歩き、さらに鮫川の河口方面へと歩いていく。ここは避難区域で泥棒を警戒しているのか、パトカーが巡回している。海岸線に近づくと、今度は津波で壊れた家が見えてきた。屋根と柱は残っているけれど、部屋のなかのものはすべて押し流され、ゴミになって散乱しているような状態だった。どれだけのスピードがあるとこうなるのだろう、身震いするような光景だった。ここにはあまりいないほうがいいという気がして、来た道を戻る。
午後の作業の班分けをする。今度は地震で傾いた小さい事務所内の壊れた家具などを運び出してトラックに積む作業。やっている作業は解体屋みたいなもの。壁はひび割れて、もう取り壊すしかないそうだ。事務所を閉鎖し稼業も辞め、もう隠居するという初老の男性は寂しそうだった。ずっとこの地で仕事をしてきたのだ。捨てざるをえない道具でも、使ってきた方の思い出が詰まっている。それらをことごとくトラックに積んでいく。重い鋳物の台や箪笥もある。場合によっては壊して積む。破片が顔にあたって冷やっとする。割れたガラスや、釘の出た木材などにも注意する。屋内作業中に強い余震でもあると、これは崩れるかもしれないと思って、少し緊張する。実際、何度か余震があって揺れを感じた。ひたすら運ぶがなかなか終わらない。結局、その日だけで全部終わらず、持ち越されることになって終了。ワゴンに乗ってVCに16時頃には戻る。班長は提出する書類書きがあるけれど、他の方は即、解散となる。お疲れ様。
着替えて、VCを後にする。再び海岸線沿いに歩いていく。余震の津波を警戒するならば、あまり奨められた行為ではないのかもしれないが、それを怖がるほどのことはあるだろうか、地元の人も散歩したり、ランニングしている人もいるし、そのあたりはよくわからない。ザックの荷物が少しやっかいだけど、時間があるので遠回りしていく。海岸線の終点あたりは再び津波の被害を受けた家が多かった。その先でレストランがやっていたので、飯にする。鉄筋二階建ての二階部分に店舗があり、海がよく見える。ムーディーなBGMが流れている。ボランティアの解体屋の作業と、早春の海岸を散歩して飯を食べていることのギャップで妙な気分になる。18時過ぎの電車に乗って埼玉まで帰る。池袋駅から出た私鉄車内で、緊急地震速報の警告音が一斉に鳴りだした。携帯にセットしてあるのだろう。自分のスマホはiPhoneの「揺れくるコール」のアプリで、いわき市で震度4を設定したままだったので鳴らなかった。Twitterで確認する。場所は千葉北東部だった。走行する電車が地震で揺れるので驚いた。帰宅は23時過ぎだった。
行動写真
勿来駅を降りて、まずは関田海岸に向かってみた。 関田海岸の津波被害は限定的だったらしい。新しい堤防と波消しブロックがよかったのか。「平成14年10月に来襲した台風21号の高波で、堤防が壊された2.45kmの関田海岸は、8年の歳月と62億円の工事費が投じられ、この度その高潮対策事業と災害復旧事業が完成した」(「いわき地域総合サイトいわきあいあい」2010-3-25より)とある。 |
北東方面を見る。あの海蝕台向こう側、40km程度先に原発があるが、ここからは見えない |
蛭田川の橋を渡る。 |
海岸線に沿って道路を北西へ。途中の道路沿いの畑にひび割れ。 |
液状化して片側が沈降したのか、傾いた道路。 |
津波に洗われた防風林。 |
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静かな海だが…… |
いわき市勿来地区災害VC。早く来すぎた。 |
VCスタッフ活動開始。 |
午前の作業が終わって高台の家から帰る。 |
ブルーシートで壊れた屋根を覆う家が多い。 |
昼休み。VC沿いの道路のフェンスが傾いている。 |
VC沿いの道路の液状化現象。 |
田んぼの液状化現象。海砂が噴きだしている |
川底からも噴出 |
あぜ道沿いの道路。海岸と平行して鮫川へ向かっている。火力発電所が見える |
海砂が噴きだした列 |
地割れも平行するように伸びている |
地割れの方向は西北西から東南東 |
地割れが道路を横切っている |
鮫川河口付近の民家。津波に洗われてしまっている |
鮫川河口付近の民家。柱も傾いてしまっている |
VC近くの地割れ。走向は同じ |
VC近くの地割れ、反対側の方向を見る |
帰りにご飯を食べる |
非核平和宣言都市の看板。しかし近隣に原発があると風評被害を受けてしまう |
装備・食糧
現地VCでは露営・車中泊は禁止となっていたが、現地で不測の事態(強い余震による電車のストップ)も考え、駅前など、適当な庇のある下でごろ寝一泊することも念頭においていた。その前日あたりから、旅館も再開していて、泊まってもいいと思った。露営可能であればテントやコンロ等もいれたのだけど、今回は日帰り予定なので入れず。
(○:車移動だったり、駅で雑魚寝せずに駅前のビジネスホテルやネカフェに泊まるなら不要)
アプローチ用
○大きめのザック(シュラフを入れるので)
○シュラフ(駅外で雑魚寝できる人は)
○銀マット
□ランニングシューズ
□通常の上下の服
□防寒着
現地行動用
(靴、ゴム軍手等、コメリのようなDIYショップですべて手に入る)
□底の堅い作業用の長靴(膝近くまであるブーツでもいい。底が柔らかいと釘を踏んだときにケガをする。破傷風になる)
□ゴムを引いた軍手(油まみれの鋳物やガラスの破片を掴むこともある)
□ヘルメット(自分はクライミング用のヘルメットを持っていった。壊れた屋内で作業するときは余震でモノが落ちることも考えて、あったほうがいい)
□汚れてもいい上下の作業用アウター(ペラペラで安い、1500円ぐらいで買える上下の化繊レインウェアがいい)
□作業用マスク(ホコリ、粉塵を吸うとよくない)
□動きやすい長袖・ズボン(ジャージなど。汗かきます)
□(防寒用の薄手のセーター。天気がよくて気温も高く不使用)
□タオル、ハンカチ
□作業用ゴーグル(解体作業をやるときに、何かを割ったり壊したりして、破片が飛んでくることがある。あったほうがいい。メガネをかけている人は不要かも)
□(メガネバンド。メガネが飛ぶと困ったことになるので)
□携帯電話(連絡に必須)
□記録用カメラ(基本的に作業中は使わない。使うなら、被災地や被災者に配慮する)
□カード型小型ラジオ(余震の可能性があったので、持っていた。何かあったらすぐに聴けるように)
□着替え(といっても、日帰りなのでそれほど汚れていなければ不要になる。駅近くに銭湯施設あり[復活した])
□行動中のポーチ
行動計画印刷物
(一部作成したらコピーして2部作成。ホチキス止めし、一部を家に残す、家族に渡す。登山計画書の作成と同じ)
□現地ボランティアセンターのHPを印刷したもの
□現地および周囲の地図(余震や津波などの不測の事態も考えて、詳しい地図要。自分はグーグルのマップで現地や周辺地図をA4で印刷し、現地までのルートを赤線引き、ホチキス止め。スマホでは電波が届かなければ地図参照できない。ボランティア作業地点に車で運ばれても、いったい自分がどこにいるかを常に考えつつ行動)
□列車等の時刻表
□周囲の宿泊施設等の情報
小道具(通常、登山用)
□医療品(小型・大型のバンドエイド、抗生物質入り軟膏)
□ヘッドランプ(替え電池も)
□携帯電話用予備バッテリー
□ローソク、ライター
□小型ナイフ
□ティッシュ、芯を抜いたロールペーパー
食糧
(現地はすでに物流回復、コンビニ、レストラン等も復活していた。しかし直下型地震があったときは、ライフラインが停止、断水していたとのこと。現地の情報に合わせて、食糧は柔軟に。できれば多めに)
□クリームパン×2
□おにぎり×2
□水1リットル
□アクエリアス500ml×2
□飴
その他
□時計
□メモ帳、ボールペン
□現金
□カード
□身分証、保険証(必須)
□ビニール袋(大中小各種)
あとであったほうがよいと思った装備など
□小型ザック(行動中に必要なものを入れておけるので)
□家族とは定時連絡、非常用連絡方法を決めておく(災害用伝言ダイヤルの使い方など)
なぜこの場所に、この時期に行ったのか、など
・被災という問題に、自分で可能な解決に当たりたい
・百聞は一見にしかず、この目で見た災害の事実を確認する、それに基づいて自分で判断し行動する
・地震や津波という地学的現象や、災害の社会学的な実態を自分で知る(これは今後の仕事にも役立つ)
・いつか関東も大きな地震災害に直面するかもしれない。そのための予行演習。災害ボランティア活動がどういうものなのかを知る
・阪神・淡路大震災のときに仕事都合で行くことができなかった、そのことが悔やまれた。今回は行く
・登山をやってきた自分の経験が災害時に役立つのか知る
・周囲の方で実際に被災地に行かれる方が増えてきた。自分も何かできることをしたい
・地震という天災、原発という人災への、漠然とした不安を払拭したい
などなど。
・仙台方面でも人手が足りないというのはわかっていたが、長期間の活動ができないので、一日作業して戻って来られるところを考えたところ、いわき市になった。近隣以外からのボランティアを受け入れていないところもあった
・さらなる余震と誘発関連地震の可能性もあったし、原発の事故が深刻化し放射能汚染の危険の可能性もあると思った。しかし、ある程度の時間が経って、地震も原発事故も収まってきた。これなら大丈夫だろうと判断
・こうした行動について、家族の理解を得られた
・仕事の調整ができた
3.11後、被害の大きさから、ボランティアには行きたいと思っていたけど、すぐに行動できなかった。3.11で東京周辺も大きく揺れて、その後の一週間は強い余震や関連誘発地震が続いた。実際、関東でも何か起こりうるような緊迫感で張り詰めた状態だった。さらに原発事故の放射能汚染の広がりや実態がわからず、動きが抑制されてしまう。次の週も原発事故の状況は不透明、余震も続き、直接被災していない東京周辺も混乱、東北方面の被害の大きさ、深さがようやく判明していった。3週、4週になってようやく本格的な支援が開始されたようだけど、テレビでやっているような「復興」はまだ遠いのではないか、ミスリードではないかと感じた。ネットで情報を見ていると、ようやく生命の危機を脱して、水・食糧が届いたという最小限の「復旧」がされているだけだった。ボランティアが現地にいち早く入って、継続的なサポートを行い、ダメージを受けた行政と連携しながら、復旧の体制づくりを行っていて、まだ手探りの状態が続いているのがわかった。原発事故の収束は長引き、余震は終わらず、誘発された関連地震で被害を受けた地域もある。まだ現地では危機的状況は継続していた。もちろんすでに元の生活に戻れた人もいるだろうし、あるいは復興に向けて動き出した人もいるだろうから、状況の進捗のまだら模様、その格差が激しくなっているように思えた。こうして一ヶ月が過ぎた。
その時点では、5月の連休に行こうと思っていたけれど、あれこれ考えて行く機会を先延ばしにしていると行けなくなるように思えた。行くなら今だ、と思い直して決定した。被災地にボランティアに行くことが無理な人も多いだろうし、自分が動けるなら動くべきだと感じた。連休になれば多数のボランティアが行くだろうし、その体験を持ち帰られた方の周囲で、さらに活動が増え、組織化もされていくだろう。そうなると、何かしようという気持ちが萎えるような気もした。組織が効率的・効果的なのはわかるけれど、邪魔にならないように個人の思いで活動するのがベストだと思った。もちろん、この時点で被災者に直接聞いて作業するには遅いかもしれないし、災害ボランティア活動をしたことがないのだから、それができる経験も能力も資格もない。今できるのは、現地の方が中心になって現地で活動をしている団体のもとで、その手伝いをすることには代わりはなかった。
行って帰って見えてきたこと
自分が行ったときにはすでに「二回目の復旧」が行われていて、一見、平和を取り戻しつつあるのかと思ったが、ネット等で情報をみると、多数の被災者が避難所に避難している状態で、まだ復旧どころではない現実も一方で存在している。他の地域でもそうだけど、現地の詳細な情報が充分に伝わっていないように思えた。3.11の地震のときは、かなり深刻な状況に陥っていて、陸の孤島になりつつあったようだから、それに比べるとよくはなっているのは確かだろうけど、まだ充分とは言えないように思えた。
勿来VCの活動はスムーズだったし、感心することしきりだった。一方、ネットで検索してみると、各地の行政の災害復旧・復興の方向性と一部市民との間の連携になにかうまくいっていないところがあるらしい。特に福島の各地域は原発に近いこともあって、複雑な問題が関わっているのかもしれない。国でも各地方でもそうだが、危機に際しては市民の命を最優先に強いリーダーシップが求められる。この場合のリーダーシップで重要なのは、最大の了解を得る相手先が地元の住民であり、委託された権利を担保として自らの責任のもとで行動し、これをなによりも優先することであって、国や一企業におうかがいを立ててから行うことではないということだ。何もないところで足踏みさせられ生活がおぼつかない状況が長く続けば、復旧・復興の格差を生み、不信感が広がる。これは一地方の問題ではなく、国と国民の間でも起こるし、産業の復興や経済に直結している。こうした問題はこれから増えてくると思われるし、新たな問題、まさに想定していない難題が次々に現れてくるように思える。
鮫川河口付近に見られた地割れと液状化、その列の走向について
(単なるアマチュアの感想であることをお断りしておきます。写真は上記を参考に)
市内各地で道路が波打ち、亀裂もあって、かなり広い範囲で大きく揺れたのだと感じた。これが3.11の時の強震によるのか、それとも、その後の4.11で起こったのか、その両方なのかはわからない。
鮫川の右岸河口付近にも生活に支障の出るようなレベルではない程度の小さな地割れや液状化があった。その地割れに一定の走向があるような気がした。単にその地点の堆積した層だけで起こっているのかもしれないが、もう少しよく観察してみようと思った。VCのある地点は、海岸線と鮫川の河口に近いので、強い地震があれば液状化するのだろうが、その液状化もすべての箇所ではなく、帯状というか線上で起こっているように見えた。田んぼのあぜ道を舗装した道を斜めに横切るように地割れがあり、そこから白っぽい海砂の噴砂の列が見られた。完全に一列ではなく、そのような列が平行して、いくつもあって、途切れ途切れで表れているようだった。その走向は、東北東から西南西方向で、これは4.11の誘発関連地震で発見された井戸沢断層の線とは直交する。井戸沢断層によって引き起こされた現象なのか、それとも違う変動なのか、強震によるその地点だけでの現象なのか、自分は専門家でないし、広域を調査していないので、原因はわからないが、そのような現象が見られたことを記しておく。
災害ボランティアご苦労様でした。ゴントさんの山で培った経験や装備が、現場の作業だけでなく、前後の行動において非常によく役立っていました。むやみにVCに行っても迷惑をかけてしまうこともわかりましたし、実際の作業の様子も少しはイメージができて大変興味深く読ませていただきました。被災地や被災者を支援するVCのスタッフやボランティアの力はすごいですね。
どもども。kikuchanたちのアリーナでの活動に刺激されて(^_^; ちょっと行ってみました。
こうやって発信してくれる事で、やりたくても出来ずにいた人達の背中を押してくれて感謝します。
私も近々かならず行こうと思いいろいろ検索したり体験談を読んだりしていました。
東日本復興のため、自分たちで動きましょう!
ボラティアさんも減っているようなので、こうした記録が何かお役に立てればうれしいです。
ケガ、事故などに充分注意して活動してください。
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