自分探し

深夜のラジオで「自分探し」の話題をとりあげた番組をやっていた。日曜深夜(=月曜の朝)なんで、この時間帯はスポンサーが(ほぼ)ないはずで、この時間帯に、おもろいことが転がってるかもしれんなー。

文化系トークラジオ Life

 「自分探し」って言葉を厳密に定義していかないと、答えも定まらない。だけど、定まらない定義のまま、ブレたところで曖昧なまま「自分探し」について、投げてみる。

・何を探しているのか、ということ。自分が生きられる環境を探しているのか、ある環境に最適化された自分のあり方を探しているのか。また、その探し方は、生き残りのためにやむを得ない営為なのか、それとも、余暇的なものなのか。

・嫌なことがあって、「逃げ」の代替で「自分探し」をしてる場合に、そのモラトリアムの期間が長すぎるのは危険だろう。だが、生きてる間に「逃げざるを得ない」瞬間というものはあるし、政治的亡命者の場合は、常に逃げ続けなければならない運命にある。この場合は自分を探しているのではなくて、自分が生きられる場所を探している。

・職業を探す場合。所定の位置に嵌っている場合、たとえば親の職業を継ぐような場合は、探す必要がない。しかし、そこで新たなオリジナリティを探すことになる、きっとなる。

・探してもそんなものはないかもしれない。しかし、探す必要がないという言説は一種の騙しであり、ある種の能動性を奪うことによって幅広い搾取のプラットフォームを築くための詐術である。この逆、探すように過剰に諭すような言説もまた怪しい。

・探す、というより、可能性の実験であり、実験することで可能性を否定し、不可能に気づくことである。できるだけ早く不可能性に気づくことは重要だが、実は一番最初にスポイルした選択肢が最後まで生き残ることがある。

・探すのを止められないことが、もっとも探している対象であり、それは最後まで発見できないから、最後まで追い続けることになる。これは生活のための仕事であるとか、そういうものではないこともある。人間は生きるためのパンとは違う理由で生きていることもある。

・自分探しをやるならば、できるだけ早く、できるだけ苛烈にやったほうがいい。当初の目標から必ず脱線する。脱線することが重要なのだ。そして、当初の目的が恥ずかしくなったところで、それは終わる。だが、もし、脱線しないようならば、それは追究する価値があるかもしれない。

・探すことが、生き残るための営為であることならば、それは人間にとって普通のことである。探すといっても、単なる暇つぶし、悦楽と安逸を探している人もいるだろう。まったく違う人間たちだが、それぞれ、悩みはあるものだ。

・探すことができるのは、一種の余裕でもある。独房に居ても自分探しは可能である。そこは誰も踏み込むことができない、個人の自由の場所だ。しかし、人はなぜか、その自由な場所さえ、進んで明け渡してしまうことがある。そんな場合は、どこに行っても、誰に会っても、どんなことをしても、自分は見つからないと思う。人を操ろうとする人間は、まず、心の自由を、心のなかに土足で踏み込んできて、その自由を奪うことから始める。