『ミヨリの森』−エコの過剰包装と痛覚の麻痺

 ※この記事は、『ミヨリの森』の批評ではなく、読後に思ってしまったことをメモしたものです。

 ネットで「皀莢(さいかち)」という樹を調べていたら(後日まとめる)、どういうわけか、『ミヨリの森』というコミックにたどりついた。

 さっそくamazonで注文。届いた。読んじゃった。
 感想? 感想……簡単に言えないというか、口ごもる。
 ただ、作者の別のコミックは読んでみたいな、と思った。

 2007年8月25日に、フジテレビ系列で2時間のアニメとして放映されるとのこと。

 アニメ化の話題は、検索してもあまり出てこない。宣伝サイトばかりヒットする(そのほうがいいかも)。
 フジテレビは「制作に2億円かけたよ」と騒いでる。元ちとせが唄って蒼井優が声。ふーん。
 あとは、森のキャラでジブリみたいに売ろうとしてるのかな。
 それより、背景画が楽しみダ。
 『天空の城ラピュタ』(!)や『もののけ姫』の美術監督・山本二三氏が監督(初)。『時をかける少女』の背景もそうだったと思う。背景という「環境」に命と魂が込められてないと『ミヨリの森』は成立しない。
 山本二三氏については

(追記:時間がとれず、アニメは見ることができませんでした。いずれDVDでも出たら借りてみようかと思います)

 このほか『ミヨリの森』については、Wiki読んだり、検索してもらえばたくさん出てくると思う。

 原作 『ミヨリの森』の感想は書きにくい。環境保護ができてよかったですね、おしまい、ってわけじゃないし。現実の森(さとやま)と、象徴としての森(心理的な逃げ場としての)を重ねているということ。現実と夢想が折り重なってしまうのは、この作者の持ち味ですね。そこに開発が入るのは、心理的自然の破壊でもあるけど、その破壊をも利用する、微妙な感情の種類を作る豊かさ、心の様態、心のバリエーションが共存していること、それが、心=森の豊かさなのかもしれない、と。自然は狡知とトリックが得意だということ、自然と人間が共に在るには、トリックスターが必要だ、とか。・・・おもしろくないよね、そんな話は。

 以下、 『ミヨリの森』とは関係のない話になります。

 自然と人間の関係についての話。あまりおもしろくないです。

 先日、沢登りに行って静かな流れの脇で夜に焚き火なんかしたもんだから、いろいろと思うことがあった。いつものとおり、とりとめのないことを、忘れないうちに書いてみる。

 人間ってのは、いろんな意味で、痛みにさらされなきゃな、痛いことを痛いと感じる必要がある、人間は類としての痛覚が麻痺してるな、と。

 人間が接する自然は、人間にとって役立つと同時に、自然にも役立つような、互酬・循環的な自然、人間化された優しい自然になっている。「里山」がそうだ。植林されて枝打ちされた美しい杉林もそうだ。そこにいると、人は、気持ちがいい。草木、水、空気、あらゆるものが美しく見えてくる

 長い時間をかけて作られた自然と人間との調和的インタフェイスの境界が人間の生きられる世界だ。
 見えないシステムのなかで、相互に陥入し、しかも違和感なく連続している、自身の身体の外延であり、自然の一部であり、その全体性のなかで自我に余計な歪力をかけずに、最小限の力でとどまることができる。「融即」(レヴィ・ブリュル)であると同時に、目覚めた自我として豊饒な全体に有意味に構成され編成された、個性化された状態。

)。
 指揮者のいない交響楽団で自分の持つ固有の楽器を好きなように鳴らして豊かな音色が聞こえてくるような、そんな感じ。

 そんな母性・父性・親的な自然がある一方で、里山の奥深く、人間の命などにおかまいなしに振る舞う荒々しい自然がある。

 容赦なく褶曲し崩落し伸び上がり凍り付き焼き尽くすという自然がある。そそり立つ岩峰、切れ落ちた断崖、白く泡立つ滝壺、吸い込まれそう青黒い淵、狂ったように生い茂る藪。砂漠と氷雪。人間を拒絶する自然。人間の都合を一切、無視する自然。そうした自然に対峙するとき、人間は、恐怖する。命の心臓が鷲づかみにされているような、締め付けられるような得体のしれない恐怖を感じる。

 そこでは、エコだのなんだのという、人間だけで閉じられた経済、マーケティングは通じない。

 元に戻れば、そうした恐ろしい自然のなかに、擬似的な自然ともいう環境を作りだして、自然とうまくつきあうシステムを作って生きてきたのが人間だ。そのつきあい方が、どの生物よりも長けていた。自然から力を引き出すことができるようになり、自らの繁栄にその力を(まさに物理的に)利用できるようにした。

 しかし、わずか100年ぐらいで、自然からの力の引き落としをやりすぎてしまった。自然から莫大な力を得るために、母・父性的・疑似自然環境を捨てて、より直接的に力を得るために、荒々しい自然の真ん中に人間をひきずり出した。荒々しい自然との直接的な対峙は、産業の労働者が直面する一過性の事象でしかなかったが、今や、全人類がその荒々しさを肌で直接感じるようになっている。たとえば、知らず知らずのうちに放射能を浴びるように。

 自然は、人間という生物の活動の一つである産業に従属するか? するわけがない。

 それは発展というのではなく、荒廃、というのだ。人間の活動の総合的な結果(政治も経済も含めて)は、よりよく生きる人間環境の創出には向かわず、人間の生存に適さない荒地の創出、自然と人間の荒廃に向かっている。
 その現象は、局地的な場所で特に現れている。干ばつや台風といった自然現象から、内戦といった人間の争いまで含めて、人間に警告を発している。
 豊かなモノやコト流れ去ってしまう。自然科学的な豊かさも、文化的な豊かさも、とどまることがなく、消失する。人間が生きられない世界。

 すべてが「砂漠気候化」していく。
 「砂漠気候」では、生き残れる人と、そうでない人が分かれる。
 たとえば、暑い砂漠で、エアコンを作る人、売る人、買う人。
 エアコンで快適に過ごす外の世界はさらに暑さが過酷になる(2007年8月中旬は希にみる猛暑だ)。

 産業は屈折している。母性的で優しい自然のイメージ、エコロジーのイメージを使って、持続可能な開発環境下での抑制的な経済活動でも、儲けられるシステムを作ろうとしている。だが、そんなことをしても無駄だ。騙せるのは人間だけで、自然は正直に、人間に現象を突きつけてくる。

 人間はこれからどうするだろう。科学技術を使って一部の人間だけを生き残る方法と、砂漠気候を生き抜くために進化する方法を同時に発明していくのか。
 ほとんどの人間は、後者だ。圧倒的多数の貧しい者たちは、自らを進化させて環境に適応しなければ生き残れない。たくさんの人間が苦しみを味わうことになるだろう。嫌な話だ。
 逆に、科学技術に囲まれた人間はシェルターにとどまり、進化を止め、外で死んでいく人間の痛みをガラス越しに眺め、最終的には多様性をもたない同質的な人間の集団として進化の袋小路に陥る。さらには、シェルターを揺るがす自然の脅威がますます強大になる。脅威は、絶望した人間の自然な暴走、も含まれる。すでにその兆候は何度も出ている(今この瞬間にも)。
 どちらも茨の道。引き返すこともできない。誰かが犠牲になれば誰かが生き残る、ということもない。

 できることは、痛みが集中しないように痛みを分散して受け止めて生きていくこと。人間にとって好ましい自然を守り共有するだけでなく、痛みもまた共有すること。

 共に、カードのババを引くこと。

 人間は、発せられている人間と自然の「痛み」を無視するのがうまくなった。
 「痛覚」が覆われているから、「痛覚」が麻痺しているから。
 麻痺した痛覚を取り戻すには、「痛み」にさらされるほかないのかもしれない。
 そして重要なことは、痛みに耐えてはいけないし、麻薬で誤魔化してもいけない、ということ。

 まやかしのエコロジーの過剰包装を破り捨て、自然の「痛み」に自らをさらすこと、「痛覚」を甦らせること。その「痛み」に気づいて、痛い通過儀礼を果たして、はじめて、優しい自然の価値がわかるのかもしれない。


 なんかえらそうに語った、抽象的でわかんないし。痛みに自分をさらしているかといえば、さらしているとは言えないし。田舎暮らしすればそれが可能かといえば、そんな簡単なことでもないし。ずっと考えて、もやもやしていくんだろうな、と思う。