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[ 7-現代近未来視聴覚研究 ] |
1997.10.05に掲載した「黒曜石の鏃を拾ったなら……『もののけ姫』の絶望と希望」を改稿。アニメーション作家・監督である宮崎駿氏の作品『天空の城ラピュタ』『もののけ姫』に見られる「飛び去るオブジェクト」を追って行き着く世界は。
>飛び去ったまま行方不明になるオブジェクト
鈍く光る黒曜石の鏃が縄文人の絞る弓から放たれた姿を見た者はいない。
発掘調査のトレンチから出土した遺物によって推し量られる前に、縄文人は、永らく物語に住んでいた。天上界の戦で流れた矢が墜ちてきたものだとされる鏃は『日本書紀』に、巨大な足跡であるとか尿の池を残して土地を去ったと言われる巨人ディダラボッチ、デイダラ法師は、各地の風土記に、といったぐあいに縄文人の痕跡は、物語のなかにあらかじめ埋め込まれていて、ついこの間まで語り継がれていた。縄文土器のことを「管狐」と呼んで、狐が化けたものだとして忌避していた信州・八ヶ岳の麓では、ディダラボッチの伝説も色濃く残っていた。
一方、都市およびその近郊では、たとえば縄文土器の破片や黒曜石の鏃が冬の畑にいつもころがっていたはずだけど、それらについて語る者はいつのまにかいなくなっていた。それが数千年も前の人が使った道具であり、沖積世と洪積世の狭間に人が生きて在った証拠だ、という物語に回収されたのはここ一〇〇年あまりのことだ。戦後の高度成長期の末期、失われた世界が各地で露出する。たとえば山梨県甲斐駒ヶ岳山頂にあった無文土器片。標高2966m、日本最高所における縄文時代の遺物はいまだ謎に包まれたままだ(「季刊 考古学63号 特集 山の考古学」)。郊外の新興住宅地の宅地造成は、歴史のゼネラルサーベイともいえる力技で数千年の時層をまぜっかえし、雑木林や畑という歴史しかもたない土地に、数千年前の出自を示した。それは同時に、物語に住まうモノたちに、新しい家の建て前餅を配る作業でもあった。縄文に限らず、発掘された歴史的事実はすでに死んでいて、地域活性化であるとか村おこしという物語のなかで使役される運命にある。彼らは列島改造よりも早く目覚めて餅も食べずに、自らにふさわしい場に赴いたように思う。
巨人の物語は現在、ゴジラやウルトラマンとして子どもにも大人にも知られているが、現代的巨人像もまた、現れては去っていく運命にある。ディダラボッチと直接にはなんら関係がないのだが、これほどまでに消え去る巨人伝説がはびこった時代は、巨人が物語のなかに封じ込められた時代と現代以外にはないだろう。痕跡だけを留めて姿を消す巨大オブジェクトが挟みこまれた物語は、ディダラボッチを祖先として連綿と生き残っている。日本の歴史の活断層ともいえるモチーフ素は世界をリロードして、私たちを遺して消える。たとえば、民話の竜の子太郎は湖を干拓して母竜とともに北へ流れ下った。そして現在、腐りかかった湖を決壊させるオブジェクトが再び現れた。なにが起こるというのか。簡単には解消できない対立する二項や媒介する三項をあぶりだし、原初の宇宙である巨人の死、その屍体から発生する食物(植物・穀物)といった神話から演繹することもできる。だが、これからたどろうとするアニメーション作品に物語分析をほどこして、この文化を生み出した人間世界のアイデンティティを同定したときには、物語の力は手元から逃れてしまう。木の葉のざわめきを指して風そのものと言うに等しい。観察者は風を感じ、風に乗り、風に運ばれて見知らぬ場所に着地する。飛び去るオブジェクトを追いながら、自らにふさわしいリアルな大地に着地したかどうか、し得るのかどうか、それなら探ることができる。
宮崎駿監督の『もののけ姫』には、飛び去ったまま行方不明になるオブジェクト、シシ神が登場する。「新世紀エヴァンゲリオン」(庵野秀明監督)は、作品自体が行方不明になって主人公が取り残されるというアクロバットを見せた。ここでは、宮崎駿監督の作品を二つほどとりあげて、飛び去るオブジェクトを追ってみたい。先行作品『天空の城ラピュタ』の巨大飛行石はまさに飛び去るオブジェクトの代表だろう。成層圏を漂うクラゲ状のお化けは、昼も夜も人間の上にあって留まっているように見えるが、誰もその姿を見た者はいない。
>飛行石、彼方の希望
宮崎駿監督作品のファンの間でラピュタの評価は分かれている。優れた冒険活劇として評価される一方で、物語が終わりに近づくにつれて消化不良を起こすような気分にもなる。生の躍動感や爽快感を求めたファンの期待が物語の最後まで持続しなかったのかもしれない。たとえば、パズーにもシータにも、ラピュタと飛行石の謎を追い求める決定的な動機や感情に欠けている、とされる(「徹底討論「宮崎駿」とは何だったのか?」『宮崎駿の世界』ユリイカ臨時増刊号、青土社、1997.8.25)。ドーラ一家の血湧き肉踊る冒険活劇があってもなお、なんとなく、おはなし全体が静かで寂しげであり、主人公の少年パズーやヒロインのシータが地上に戻る姿に哀しみを感じるのだ。静けさに満たされたラピュタは空飛ぶ墓標だった。あらかじめすべてが終わっている世界、滅びを加速させるためだけの物語進行、どことなくはかなげな結末。父親の汚名を雪ごうという少年パズー、出自の謎を知らんとする少女シータ。どちらの動機もまた、自らの世界を未来に拓くものではなく、とりまく世界からあらかじめ刻印されている徴を払い去るための旅、過去への旅であり、幼年期清算のための弔いの儀式、だった。『天空の城ラピュタ』は、冒険物語は現代に可能か、普通の少年が冒険を経て大人になれるか、という問題意識から立ち上がった作品だとされるが、その冒険とはつまり、家族幻想を維持する力を破壊する通過儀礼のことだった。
物語は家族のイメージに彩られている。母は天蓋を覆う大樹、家のように眠っていた。父は母の家を守る心やさしいロボット。かつては帝国であった壮大な空の城も今では、小動物と庭園に囲まれて慎ましく暮らしている、子どもたちの巣立ったあとの夫婦の世界と同じだ。かつては大いなる力が宿っていたに違いない。大樹という母の家、そこを守りつつあるいは守るために外の世界で闘う父の構図は、大家族の遺制あるいは第一次核家族の姿、戦後の日本的家族の理想であった姿にも重なってくる。独り家を守り子を育てる母、ひたすら働く父の姿。ラピュタはこうした家族の残骸であり、古さびていく家庭、都市の周囲を浮遊する墓所だと言うこともできるだろう。
映画の最初でラピュタ人が地上に降り立った起源が示されるが、地下から飛行石を含んだ鉱石を引き揚げるために空の風を利用しているのがわかる。その意味で、飛行石の結晶は風の力の結晶であり、天と地下が人間という地上の存在によって和解したひとつの理想、ムスカの言う「人類の夢」だ。風を生み出す永久機関は、地上で自然の恵みを受けずに生きることが可能なユートピアを造り出す力を秘めてはいるが、その強大な力を統御するために人間を不安の秩序に縛り付ける。原子力発電所での作業のように、複雑なシステムを何重にも張り巡らせ常に監視する軍隊のような組織化された人間世界は、もはや何もできないまま衰退するほかない。地上での苦しい生活から自由になったラピュタ人は同時に、飛行石の力の統御を司る「お釜」を維持するために自由を失う。ラピュタ人たちはそうした生活を破棄して、もう一度、地上で生きることを決意したはずだった。その時点で、ラピュタも飛行石も破壊されなかったのは、ラピュタ人が地上での生活に失敗したときに自動的に発動する滅びのプログラムであったのかもしれない。ロボットの一人が郊外の畑に失墜して発見される。それが物語の発端だとしたら、そのロボットの失墜は始めから意図されていたのだ。プログラムはムスカという男に憑いて作動し始めるが王の末裔である彼自身もそのことに自覚的である。彼があらゆる人間を信用しないのは、何者かに操られてきた自らの歴史と手を切り、ラピュタ自体をも裏切るためなのだ。彼自身の目的は、巨大飛行石を操り世界を支配することにあったので、その意図を飛行石自体に知られないように家族物語の再演でもって偽装する。そのためにシータを手元に置き、しばらくしたのちに殺す予定だった。玉座の間でシータのお下げ髪が銃弾に切り裂かれるモチーフは映画のなかで繰り返し表わされている。シータのお下げ髪を触るムスカ、引っ張る兵隊は、明かに髪に敵意をもっている。その敵意は、大樹に対するそれと同じものだ。地下・地上・天上を結び、永久に生き続ける生命の源としての大樹、自然の永久機関への嫉妬であり、それを殺して真に男性的な永久器官を人間の上に据え付けることこそ、彼の目的なのだ。人間の植物的部分にして風を感じる器官を失ったシータは、そのとき、逃げるのを止める。古き人間の呪縛は地上において解かれなかった、シータ=リュシータ王女は人間に裁きを下し、バルス・プログラムを発動する。王の身体亡きあとの墓所で、王の頭脳とともにこの世界は終わりを告げるのだ。シータの死によって、母たる大樹と交わったオイディプス王、あるいは「生命の輝く顔」を直に見てしまったムスカは眼を失う。墓所の幻想は破壊された。王として死んだシータを救い出すことは、ラピュタを求めていたムスカと同じ古き父の幻想からパズーが抜け出す唯一の方法に違いない。そして個と個が生まれ、物語は終幕を迎える。
パズーやシータが地上に近づけば、大樹と寂しいロボットは巨大飛行石に乗って空高く舞い上がっていく。天は神話的な死、受けとめ難い理不尽な死を回収する物語を暗示する。『紅の豚』で仰いだ蒼空には非業な死を遂げた者たちの飛行機が群をなして飛ぶ。理想のまえに潰えた父と母は、子どもたちを喪主として今やはっきりと天上に葬られた。バルスという言葉は、父母への正式な弔辞であり、産業社会に支えられた古き家族からの離脱を実行する滅びのプログラムであり、その産業を成り立たせた自然を人間から自由にする解放のプログラムだった。だが、それは大団円、なのだろうか。
あの呪文によって、シータやパズーの住まう地上も人間から解放されてしまったのではないか。地上の「お釜」的なるものすべてが破壊されているとしたら、地上に降り立つことなどできないのだ。登場したキャラクタの誰もが、物語の終幕で地上にしっかりと降り立ったとは示されていない。あたかも、降り立つことを周到に避けるかのように。パズーとシータが地上に戻ったとしても、現実はなにも変わってはいない。「土から離れては生きられない」と強引にシータに言わせたとしても、農耕は産業の一形態として貶められ、鉱山での労働は飢餓と絶望のうちにある。スクラップ同然で地上に墜ちてきた父たるロボットは、燃えさかる炎のなかで人間を守りながらも人間によって殺され、阿鼻叫喚のただなかで遺棄された(まるでバタイユの父のように)。それが新しい人間の地上における運命であったとしたら人間は天と地の間に、あるいは地下に逃れるだろう。ドーラ一家が地上で生きようとせず天と地の間に浮遊し続けるのは、人間の住まうこの地上が「腐海」のように汚染されているどころか、人間自身が胞子なのかもしれないという恐れを抱いているからに違いない。天上と地上の間で、道具を操ることでかろうじて動的な安定を維持する飛行士としての世界が新たな人間世界なのである。そして、この世界は、空中に浮遊するラピュタと同じであり、物語は天上と地上を繋ぐ飛行石を求めて始めに戻らざるを得ないのだ。
ラピュタを捨て、古き家も捨てて地上で生きるのなら、ラピュタもろとも飛行石も完全に破壊しなければならないだろう。「お釜」や大樹や飛行石の残骸が地上に降り注ぎ、世界は一度燃やしつくされ、大樹の木片が知られざる大地の片隅で新しく芽を吹く、古き地上世界の死が訪れ、その片隅で生まれた新しい命とともに人間も生きていく、そんな映画版『風の谷のナウシカ』に似た結末が必要になる。それをしなかった宮崎駿監督は、生命の源であると同時に死を運ぶ「核」としての飛行石を温存したといえる。今、ここで飛行石を爆破しても、その爆風は生命の風ではなく、死の嵐となってこの地上に吹き荒れるからだ。超高高度を保ち、すべての人間をその視野に治めた巨大飛行石は、その下で人間たちが共生可能かどうか、見張っている。そして、うまくいかないときは、裁きを下すために、自ら崩壊して死の嵐を地上に吹き付ける。コミック版『風の谷のナウシカ』のオーマのように、風の司のもとで裁きを下す者として育ち、風の司が倒れたときは、世界は燃やしつくされると黙示した。
そのような災禍の危険があっても、なおも飛行石を温存したのは、地上で泣き続ける孤児たちを空中に引き揚げ、出会わせるためだ。あるいは、天使が地上に激突するまえに受け止めるため、あるいは、地下に残された労働者たちを待たせないためだ。空から降ってきたシータを受けとめたパズーの足場は、同時に、地下の労働者たちが地上に戻るために必要だった巻上げ機の上だった。巻上げ機の蒸気の風と飛行石のペンダントは同じ力をもっている。天から降ってきた者も地下から上がってきた者も、どちらも、哀しみのうちにあり、そこには少なくとも他者を迎え受けるだけの力が必要なのだ。巨大飛行石は、もっと大きな出会いをもたらす力、パズーとシータを含めたたくさんのキャラクタたちがそれぞれ別の他者に出会うための道具として、かろうじて空に輝いている。「飛行石のもとは山の上に木をはやす力を持っている、聖なる根源・宇宙の味の素です(笑)」(「宮崎駿インタビュー 時代を超えていく通俗文化を作りたい」、『映画 天空の城ラピュタ GUIDE BOOK』所収、1986.8、徳間書店)と冗談めかして答えている監督は、冒険活劇映画の舞台裏でせっせと飛行石を掘り続けていたに違いない。
そして11年後、『もののけ姫』において、巨大飛行石は破壊されたように思う。『天空の城ラピュタ』で、ラピュタ人が地上に降り立ったのが、パズーの時代より700年前だというから、ラピュタ人自身が飛行石を爆破したのだろうか。
>アシタカ、怨讐の果てに
『もののけ姫』における飛び去るオブジェクトは、「シシ神の風」である。『天空の城ラピュタ』ではなされ得なかったの巨大飛行石の破壊は、「神殺し」というモチーフで行われた。監督は中世において希望も絶望も地上に引きずり降ろしてしまい、死の嵐と生命の突風を同時に吹かせた。現代は、すでに裁きが下された後の世界となる。「シシ神の風」は一度だけ世界を吹き抜けて、もはや戻ってこない、今後、自然が人間を守り救うようなことは二度と起こらない、と断言したようにも思える。裏返せば、この地上に残された人間たちの未来に希望を託すした、といえなくもない。物語に希望を封じ込めることは、現時点では成就しえない希望を未来に延命させることでもある。これは賭けに違いない。
「神殺し」に至る人間と人間の争い、あるいは自然と人間の争いを、行方不明になるオブジェクトを通して追ってみよう。「石火矢の弾」「黒曜石の鏃」と続いて、「シシ神の頭」「シシ神の風」と連鎖して作られていく物語は、最後に、人間の希望として現れるのだろうか。
石火矢の弾の出自は暗い。猪に食い込んだ弾は、もともと人間へと放たれたものだ。人間として扱われない人間たちが人間となるための闘いのために考案した道具であり、物体化した人間への怨念である。怨念を宿した猪が祟られるのは当然であって、当事者に直接、瞬時に祟り返すことができない以上、思念の負債は、別の人間に肩代わりされることになる。最初、その負債は、東国の深山のムラ娘に来るはずだった。その流れを変えて、自分の命とそれを交換したのが、アシタカである。猪に放たれた矢、黒曜石の鏃は、アシタカの命である。
大和の民によって北に押し上げられた縄文の末裔のムラは、こうした祟り神のもたらす負債によって破産寸前であったかもしれない。アシタカはこうした思念の市場に身を投げ出したわけだ。ムラの取り決めとは別の経済関係をもつような存在は、ムラから放逐されるか、自主的に出て行かざるをえない。それは、死ぬ、ということだ。ムラの世界で生きられる限りにおいての命であり、ムラから放逐された身となっては、生物学的に生きていても死んだことと変わらない。実際、ムラの人間たちは、彼が朝、ムラを出ていった瞬間に彼が死んだと認知したことだろう。死者を引き留めないために、誰も見送らないのだ。ムラの再生のシステムとは別の交換をした者は、ムラから出ていかなければならない(この点は『天空の城ラピュタ』で、空から女の子をもらったパズーが、ドーラ一家と行動を共にして鉱山町を出るのと同じだ)。呪的・物理的に無防備なままムラの外に出たならば、「もののけの輩」となってムラとムラの間にある広大な境界線を渡って死に行くしかない。
それでもアシタカは生きる。祟り神が憑いてしまったこと、ムラの娘から再び黒曜石の鏃を受けたからだ。祟り神とは、ある思念(怨念・執念)が成就され貫徹されるまでは決して死なない、己の思念を妨げる存在をことごとく破壊しながら疾走し、荒野を焼きつくしていく存在だ。その思念は決して成就することがないゆえに、自らを焼きつくして命果てる運命にあるが、それまでは殺しても死なない。ムラの娘からもらった黒曜石の鏃は、アシタカの命を守る祈りの結晶であるとともに、大和の民への怨念も含まれた複雑な贈り物である。巨大な猪と同じように人間のムラを蹂躙していく運命が彼の死期を延長させ、加えて、ムラの娘からもらった黒曜石の鏃が彼を守り、彼自身も自らの手に宿った破壊への衝動を抑えつつ、かろうじて人間の姿をとどめる旅人となる。鏃に込められた祈りと祟り神のルサンチマンの力の拮抗。アシタカがその後、超常的な力を発揮するのはこれらの力がせめぎあっているからに違いない。もし、娘の祈りが込められていなかったら、西の果てまで火の海となっただろう。『風の谷のナウシカ』における王虫の群が暴走したように。
アシタカの希望は祟りという負債を与えた張本人にこれを返し、自分の命を取り戻すことにある。石火矢の弾の出所に至って弾を返却する、場合によっては撃ち返すつもりだったのだろう。しかし、かの地「タタラ場」では、鉄と祟りと、人間の命とが同時に「生産」されており、自分の命とそれが交換できないことをはっきりと知る。絶望。「なぜ俺は生きているのか、生かされているのか」。その意味はない。アシタカは再び死を覚悟して、サンとエボシ御前の対立を防ごうとする。死ぬことができない自分、自分を生きながらえさせるこの怨讐の力を、怨讐のぶつかり合いの仲裁の力として使用し、彼は自らの命とともに怨讐の力さえも葬ろうとした。サンにあたるはずの石火矢の弾を人間の姿をもつアシタカが受ける。それは、石火矢の弾が猪に当たる瞬間の再演だ。死に行く者しか、この石のつぶてを受けることができないはずだ。身代わり。自ら生きることを放棄しても他者を守る人間が、怨讐の力を消す、はずだった。しかし、祟り神の思念は、人の命でも贖うことができなかった。彼はシシ神によって再び生かされるし、モロ一族の狼には、人間が救うことなど簡単にできるものか、と一喝されてしまう。怨念によって緩慢に殺されていく人間、アシタカは、最初の現代人である。
アシタカは黒曜石の鏃をもののけ姫に渡す。シータが「海に捨てて」といって渡した飛行石のペンダントと同じように。アシタカは、祟られ死に行くしかないが、それでもいいと思ったということだ。死に行く者を生き返らせ、祟り神の怨讐の力さえ鎮めて眠らせるシシ神の頭も、彼には必要がなかった。
アシタカは死ぬことによって、サンとエボシ御前が象徴する二つの世界を結びつける存在、人間と自然をとりなす要石、あるいは、ほとんど絶望とさえいえる距離にはばまれた二つの世界を串刺しにする、もっとも遠いところにある鏃、となるはずだった。自らの生の領域を可能な限り他者に譲り渡して世界の背景に退くモチーフは、他者を対面させる飛行石と同じオブジェクトといえる。しかしアシタカは生を意味づけるオブジェクトをすべて明け渡すにもかかわらず、背景には退かない。退いたのはシシ神だった。シシ神だけが、人から生まれる祟り・怨讐を引き受ける。サン、エボシ御前、そしてアシタカといったすべてのキャラクタが別の他者と出会うための大地が守られた。シシ神は他性の風(プネウマ=息吹き=土くれに吹く精神の風)として世界を通り過ぎるだけの存在となる。飛行石がそうであったように。
ラピュタと同じこの結末は、ラピュタ化したこの世界でどう生きるか、の解答とはならない。人間が人間であるための闘争から生まれる怨讐を誰もがもっていて、それを投げつける手をもち、人間の誰もが受けとめきれないという結末。エボシ御前は城塞都市へと至るタタラ場を再建するだろうし、サンはエボシ御前やアシタカのいるタタラ場は襲わないかもしれないが、再び人間界を襲うだろうし、アシタカは鉄を掘るだろう。サンの意思を人間界にもちこんで四苦八苦したうえに再び旅に出、この物語を日本中に伝えるかもしれない。祟り神は各地に出没し、そのたびに各地のシシ神にあたる神は倒れるだろう。物語は成就せず、振り出しへと戻るように設定されている。
人間自身が遠くへ、はるかに遠く赴き、そして世界を変える力を携えて戻ってくるという物語を、宮崎駿監督は「シュナの旅」で描いている(『シュナの旅』宮崎駿著、1983.6.20、徳間書店)。シュナは神人の畑から麦を盗むため、自身の命を捧げるが、他者の祈りによって人間の世界に回収される。人間と自然の円環がわずかに断ち切られ、物語が完結する。飛行石やシシ神の頭を奪おうとする行為に近い。「シュナの旅」そのものを映画にすることはなかった監督は、もののけ姫ではこうした略奪の対価を人間としていかに支払いながら生きていくか、それがいかに難しいかを観客に突きつけた。神殺しによって人間は人間となったが、人間の物語は現在に閉じて円環をなし、再演され続ける。神を殺し続ける代わりに、永遠に対価を支払い続ける現在の物語が始まる。『もののけ姫』の終幕は、現在を維持するための経済の始まりであり、永劫に回帰する物語に人が耐えうるか試しているようなものだ。
>爆破された飛行石のトビイシ
「砂漠、楽なんですよ、空虚、何もないって。ほんとうの砂漠とは違うと思うんですけどね」(「対談 .VS山根貞男」前掲書、『COMICBOX』1984.5-6月号初出)と宮崎駿監督は、安易な砂漠のイメージを拒否してナウシカの舞台に腐海という森を置いたが、元々の着想では砂漠であったという。人間の自然に対する負債は返済不可能なまでに膨らんでしまい、荒野が、「砂漠」が、急速にこの地上を、人間を覆い始めているのは間違いない。人間が人間に対して被った負債、ホロコーストとヒロシマは、砂漠の最深部に打ち込まれた墓標である。その砂漠の最深部を舞台としたコミック版『風の谷のナウシカ』は、『もののけ姫』より凶暴であるが、どちらも、自らが生み出した凶暴な力が自分に折り返す覚悟を決めて、円環の物語を砂漠で敢えて続けよ、それが人間という生物の尊厳だ、という結末を用意した。それぞれの種がその尊厳を貫くのが適当なことなのか、あるいはそのような尊厳が存在するのか否かはここでは触れない。ただ、覚悟を決めても決めなくても、「生きろ」などと言われなくても、人間は最初から「砂漠」に押し出されている。再演される物語に、未来、は提示されない。
永遠に繰り返される現在が、未来に一瞬でも開かれる可能性があるとしたら、あらかじめ用意されている癒しの森の幻影を捨て、命の風を耳元で感じることだ。たとえば、飛行石を求めて龍の巣に接近する飛行船の下に一瞬臨まれる不気味な海原や、稜線を駆けるヤックルの上から見る異様な朝焼けは、繰り返し繰り返しやってくる。他者の生のために死を覚悟したアシタカが見る、供する者ない死出の旅を始める不気味な朝焼けの空には、毒を含んだ風がうなりをあげている。この物語ともいえないオープニングは人間にとって剥きだしのリアルである。生まれたときからすでに始まっていて、舞台は真っ黒な積乱雲か熱風吹きすさぶ砂漠に囲まれている。ゴールに約束のカナンはないし、ゴールという言葉さえ持ち出せない。人間と自然すべてを見渡す成層圏の視点に、「大文字の希望」のように昇り、すべての人間の自然に対する罪をあがなって、未来を受け取ることはできない。飛び去るオブジェクトの強い風が繰り返し吹いているだけなのだ。だからこそ、この風をとらえて、燃え盛る砂漠の上を低く飛ぶことだけが許されている。
アシタカはそれでも飛ぼうとはしない。サンが地上に張り付いたままだからだ。地上での苦しみを避けるために天空へ昇れないとしたら、地下に潜るかもしれない。そして、黒曜石の鏃と同様のオブジェクトを自らの内に見つけるために、掘って掘って掘り抜いて、探していくだろう。サンは巻上げ機の操作を習うだろうか。
炭坑で石炭を掘るときに、岩盤に打ち込んだツルハシやドリルの衝撃で破片が飛んできて当たることを、「トビイシ」という。裸で作業をしている炭坑夫の身体には、入れ墨のような傷跡が残る。『もののけ姫』でアシタカに刻まれた痣は、爆破された飛行石のトビイシだ。一片の黒曜石から割り出された鏃も、宮崎駿と膨大な関係者からなる制作物も、そしてツルハシを振り下ろす瞬間に飛び散るトビイシも、それぞれに痛く美しい。それらは今、地上に降り注いでいる。